◆亀岡文珠堂奉納詩歌百首について◆




慶長7年(1602)2月27日、兼続の呼びかけで、亀岡大聖寺(現山形県)文殊堂にて行われた詩歌会。


兼続の弟大国実頼が出題者となり、一枚ごとに別々の題が記された短冊に、和歌あるいは漢詩を一首ずつ記していった(全百首)。これらの短冊に記されているのは、すべて作者の自筆だという。これらは1冊に表装され、僧泰安玄劉の序文が付されている。


参加者は兼続のほかに、安田能元、岩井信能、前田慶次、大国実頼など総勢27名。大身の者から兼続配下の与板衆の人、兼続と親交のあった僧侶など、身分の上下に関係なく、上杉家中で和歌や漢詩の心得のある者が一堂に会した。



ところで、慶長7年の春といえば、前年11月、上杉家は米沢に移って来たばかりで、家を上げて移封後の雑多な職務に追われていた時期である。ことに兼続は、その先頭に立って采配を振るわねばならない立場にあったわけで、多忙この上ない時期であったはずだ。


その多忙極まりないときにあって、苦楽を共にしてきた、あるいはこれからこの難局を共に乗り切っていかねばならない人々と共に詩歌会を催したことの意味は大きい。


それまでにも、上杉家中では、家臣らが一堂に会して、しばしば連句(聯句)会などが催されてきた。
連句会ではないが、家中の者たちが同じ場と時間を共有するという点において、この詩歌会もいってみればそれらの連句会の延長にあるといえる。
ただ、寺社に「奉納する」という性格上、それまでの連句会とは少々趣を異にする。単に風流の世界に遊ぶのが目的ではなく、神仏に祈願し、納めるという目的があった。
移封後間もない米沢の地で、今後の家中の安泰を願い、苦難の時期にそれをともに乗り越えてゆこうとする家中の結束を図ろうとしたことは想像に難くない。


それでも、この日一日だけは、後顧の憂いを忘れ、風雅の世界に身をおいて、人々はそれを楽しんだであろう。百首の詩歌からはその間の事情がひしひしと伝わってくるのである。






奉納詩歌百首     

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