兼続の漢詩

〜七夕〜


「織女惜別」



 年に一度しか逢うことを許されない七夕の牽牛と織女だって、どうしてそれをうらみに思うことがあろう。一度でも逢うことができる、それだけでも喜びではないか―そういって男は女の肩を抱き寄せる。

 今宵ばかりは日常の雑事やそれにかかわることで生じる鬱々とした思いを忘れて語り明かそうと思う。

 会話がまだ終わらないうちに女は涙を流す。その涙は日ごろの鬱屈を洗い清めてくれるようでもある。

 共寝してそれほど時が経っていないと思われるのに、すでに五更の鐘が鳴り響いている―


※「五更」・・・夜を5つに区分した時の5番目の時刻のこと。午前4時から午前6時ごろ。


 年のうちに何度と逢うことも叶わない二人を、七夕の二星に託し詠みあげた詩である。

 「私語未終」とか「合歓」など、艶な雰囲気の言葉が使われ、とても艶っぽい感じの詩である。

 年に一度しか逢えない七夕の星であるが、逆を言えば、年に一度は逢瀬を約束されているのである。そういう星を引き合いに出して詠っているということは、この詩に描かれた男女は、一度逢ったら次に逢えるのはいつなのか不確定な恋人同士なのではなく、逢うことは当然のこととして約束されているが、なかなか逢うことが叶わない二人、と解する方が自然ではないか。つまり、相手の女性は妻であるおせん夫人を想定しているのではないかと私は考える。「合歓」は、「夫婦が睦みあう」意でもある。

 ようやく二人だけになることができた夜、語りたいことはたくさんあるはずなのに、女の目からは真っ先に涙がこぼれ落ちる。

 第三句に使われている「そそぐ」であるが、「そそぐ」には「注」「沃」「灑」「瀉」など、いくつかの用字がある。にもかかわらず「洒」の字を用いたのは、平仄などの漢詩の規則などにもよるのであろうが、この場合、もっとも相応しい用字であると思う。

 「洒」にはただ単に水をそそぐという意味のみならず、水をかけて洗い清める意があるからである。

 女人の流す涙によって、濁世の鬱屈(「鬱胸」)が浄化されていくことを暗示しているようでもある。

 武一点張りでない、兼続の優なる心、可憐な心の襞に触れるような作品である。

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