Vol.2 六代御前の墓


 さる程に六代御前は三位の禅師とて、高尾の奥に行ひ澄ましておはしけるを、鎌倉殿、「さる人の子なり。さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ。」とて、召し捕つて失ふべき由、鎌倉殿より、公家へ奏聞申されければ、やがて安判官資兼(あんはんがんすけかね)に仰せて召し捕つて関東へぞ下されける。駿河国の住人、岡部権守泰綱に仰せて、相模国田越河の端にて、つひに斬られにけり。十二の年より三十余るまで保ちけるは、ひとへに長谷の観音の御利生とぞ聞えし。三位の禅師斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり。
                  (『平家物語』巻第十二 泊瀬六代の事  付 六代斬られの事)


 
(意訳)
 六代御前は三位の禅師という名で、高尾(高雄)の奥で勤行なさっていらっしゃいましたが、鎌倉殿は「あの者はさる者(維盛)の子である。またさる者(文覚)の弟子である。たとえ頭を剃りなさったとしても、よもや心まで剃ったりはなさるまい。」といって召し捕るよう公家へ奏聞申されました。まもなく安判官資兼に申し付けて、六代御前を捕らえて関東へ下向させました。駿河国の住人、岡部権守泰綱に申し付けて相模国田越川のほとりでついに刑に処せられたのでありました。六代御前が12の歳から30あまりになるまで命を保つことができましたのは、ひとえに長谷の観音のご利生によるものと承っております。三位の禅師が斬られて後、平家の子孫は永く途絶えたのでありました。





六代御前の墓
神奈川県逗子市桜山

■六代御前■

 平維盛の嫡男で、清盛には曾孫にあたります。平家の都落ちには従わず、母(藤原成親の女)、妹とともに京に隠れ住んでいました。
 壇ノ浦での平家滅亡後、代官として京の守護をしていた北条時政は「平家の子孫と云はん人、男子においては一人も漏らさず。」として平家の子孫を探し回っていたところ、ある女房の密告によって母子の居所が突き止められてしまいます。捕らえられ、すぐにも命を失うところを文覚上人に命乞いをし、命が奪われるのはとりあえず取り留めることができました。
 文覚上人は、伊豆に配流中に、やはり同じく配流にされていた源頼朝に挙兵を促した怪僧です。文覚上人は20日という期限を切って、六代の命乞いのために鎌倉の頼朝のもとに許しを請いに向かいます。しかし約束の期日が来ても文覚は戻りません。痺れを切らした時政は、六代をつれて関東へ下ります。駿河の国千本の松原というところで、処刑しようとしたところ、辛くもその場に間に合った文覚。文覚は頼朝の御教書を携えており、六代の命は助かりました。
 このとき六代、12歳。たいそう見目麗しい若君だったといいます。

 文覚は六代と六代の母、妹を引き取り、高雄に居をしつらえ、そこに住まわせます。母は六代に速やかに出家することを勧めますが、文覚は「惜しみ奉って」出家をさせませんでした。文覚が六代を助けたのは、六代の美しさゆえだったのかもしれません。文覚の六代に対する態度にはどこか艶っぽいものを感じずにはいられません。
 さて、文覚に出家を惜しまれた六代ですが、16の年、ついにその髪を下ろします。父維盛の足跡をたどり、勤行の日々が続きます・・・

 文覚は頼朝没後、土御門通親襲撃計画の謀議に加わり佐渡国に流され、のち対馬に流されます。
 この文覚の流罪に前後して六代は冒頭の引用のように捕らえられ、刑に処せられました。文覚という庇護者を失ったがゆえなのでしょうか。



■六代御前の墓■

画像の墓は、逗子市にある六代御前の墓。六代がそのほとりで斬られたとされる田越川はすぐそばを流れています。
数年前に訪れたものなので、景観が変わっているかもしれません。墓碑は六代の縁者と名乗る水戸藩士によって江戸時代に造られたものだそうです。墓碑を抱くようにしてそびえるケヤキの大木が印象的でした。

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