Vol.4 白鳥城  付 呉羽山八幡社
(富山県富山市)

 
盛俊五千余騎を引卒して、加賀と越中との堺なる倶利伽羅山を打越えて、越中国小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。木曽早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千余騎を相具して越中国に指遣す。兼平は鬼臥寒原を打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国婦負郡御服山に陣をとる也。

(意訳)
 越中前司平盛俊は五千余騎を率いて、加賀と越中の堺の倶利伽羅山を打ち越えて、越中国小矢部川を過ぎ、般若野に陣をとりました。義仲は早馬に驚いて、今井四郎に命じ、六千余騎を率いて越中国に遣わしました。兼平(今井四郎)は鬼臥・寒原を過ぎ、黒部四十八箇瀬を渡り、越中国婦負郡御服山に陣を敷きました。(『源平盛衰記』 巻第二十八)






■義仲、越中へ■

寿永2年4月末、木曽義仲軍は越前国燧ヶ城に籠っていたが、平家の大軍に城を落とされ、敗走。そのまま平家軍に押される形で義仲軍は加賀国へ撤退を余儀なくされた。
義仲軍には林・富樫といった加賀国の在地の侍もいたが、彼らの館も討ち取られ、安宅の渡しに構えた城郭も、平家の手に堕ちてしまった。

その頃、総大将の義仲は未だ越後府中にいた。
義仲軍は、斉明の返り忠によって燧ヶ城を落とされ、その後も処々で苦戦を強いられていることを義仲に伝えるために早馬を仕立てた。

一方、燧ヶ城で返り忠を働いた斉明は、平家の総大将三位中将維盛の前に進み出て進言する。
越中と越後の堺に寒原という難所がある。義仲がここを越えてしまったならば、味方のために由々しき自体になろうから、先ずは寒原をふさぐのが肝要、と。
維盛は斉明のこの言を入れ、越中前司平盛俊に5千余騎をつけて越中に向かわせた。

寒原とは現在の親不知のこと。ここは、親も子も互いに互いを気にかける余裕もないくらい、自分が通行するので精一杯な場所、という意味で「親不知・子不知」と名づけられたというほど、古来から通行の難所だった。現在は海上を北陸自動車道が通り、快適なドライブを楽しむことが出来るが、高速道路ができる前は確かに「難所」に違いなかった。

さて、味方の劣勢を知った義仲の行動は早かった。
義仲は自分の右腕とも頼んでいる今井四郎兼平に六千余騎をつけて、越中に向かわせたのである。
兼平は難所である寒原をうち過ぎ、これもまた難所であった黒部川の瀬を渡り、越中国婦負郡呉服山(現富山市呉羽山)に布陣した。

「敵、彼(=寒原)を越えて越中へ行なば、御方の為にゆゝしき御大事」―
義仲軍が素早く寒原を越えてしまったことで、斉明の恐れていた「(平家にとって)ゆゝしき御大事」は現実のものとなるのである・・・



■白鳥城(富山市吉作)■

富山市西部の呉羽丘陵に築かれた城。『源平盛衰記』の中で今井四郎兼平が布陣したとあるのがここである。

呉羽山の麓には八幡神社があり、兼平が戦勝祈願したと伝えられている。

この城が有名なのは兼平の布陣よりも、天正13年(1585)、豊臣秀吉が佐々成政を攻撃したとき、秀吉の本陣となったことであろう。
敗北した佐々成政は、呉羽山で剃髪し、服従の意を表した。その剃髪地跡の碑が呉羽山の一角に残る。



■呉羽山八幡社■

今井兼平が戦勝祈願したと伝えられる八幡社




【アクセス】

アクセスは車がおすすめです。というか、公共交通機関を使ってのアクセスはよくわかりません?最寄のJR高山線の西富山駅から歩いても15〜20分くらいでしょうか。
車の場合は、県道富山高岡線を富山市街から高岡方面へ。JR高山線の高架を越えて少しいくと「白鳥城址」の標識があるので左折して山道へ。山道といっても整備されているので、全然心配は要りません。そのまま道なりに行くと駐車場がありますので、そこに車を止めて散策することが出来ます。


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