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小松市内から白山を望む |
■霊峰白山■
白山は加賀国、越前国、美濃国の三国にまたがる山で、富士山・立山とともに「日本三名山」のひとつにあげられます。古くから歌にも多く詠まれ、「越のしらね」として親しまれてきた山です。養老元年(717)、越前の僧泰澄(たいちょう)が初めて白山に登拝したのが、白山信仰の始りといいます。
白山信仰は水に対する信仰が元になっており、加賀の手取川、越前の九頭竜川、美濃の長良川、越中の庄川の4つの大河はいずれも白山を水源としています。
■白山比盗_社■
白山比盗_社の創建は今から約2000年前崇神天皇の代と伝えられています。これは伝承の域を出ませんが、古くから信仰の場として崇められていたことを意味しているのでしょう。
白山比淘蜷_(菊理媛神・・・ククリヒメノカミ)、イザナギ、イザナミの三柱の神を祭っています。ククリヒメは水をつかさどる女神。
白山の最高峰・御前峰(海抜2702メートル)の奥宮には白山の本地である十一面観世音菩薩が祀られており、白山は山自体がご神体であります。その「まつりのにわ」として設けられたのが白山比盗_社です。
白山社は全国に三千余ありますが、白山比盗_社はそれらの総本社であり、加賀一宮として古来から崇拝されてきました。
戦国期の戦火により社殿は廃れましたが、前田利家によって復興され、藩政期には加賀藩の篤い保護を受けていました。
■木曽義仲と白山
寿永2年(1183)5月9日、木曽義仲軍の先発隊は、般若野で平家軍と戦い勝利を収め、敗れた平家は加賀国へ退きました。越後国府を発った義仲は、この日、5万の兵を引き連れて越中の六動寺(現富山県高岡市伏木あたり)に到着。
この地で「北國第一の霊峰」である白山を遥拝します。白山妙理権現に願書を奉納するために、覚明が認めたのが、冒頭の願文(一部)です。平家の悪行を訴え、源氏の勝利を願って神に奉りました。
四海にあまねく及ぶという白山権現の利益を頼み、義仲は目を閉じて白山を礼拝し、掌を合わせて祈りを捧げました。(『源平盛衰記』)
その後舞台は倶利伽羅峠に移ります。
倶利伽羅での源氏の勝利は別項に記したとおりですが、その後も勝ちに乗じて義仲は軍を西に進めます。
5月12日、奥州の藤原秀衡のもとから義仲に龍蹄(りょうてい 駿馬のこと)が二匹贈られてきました。一匹は白月毛で、もう1匹は連銭蘆毛(れんぜんあしげ)であったといいます。勝利のお礼ということでしょう。義仲はこれらの馬に鏡鞍を置き、神馬として奉納したということです。(『平家物語』)
(注)白月毛・・・白みがかった月毛の毛色をした馬。「月毛」とは、赤っぽく白みを帯びた毛色。
連銭蘆毛・・・蘆毛に灰白色の銭形の斑紋が混じっている毛の馬。
「蘆毛」は、白い毛に青・黒・濃褐色などの毛が混じっているもの。
■義経と白山
『義経記』によると、都を追われ、奥州に向かう途上、義経一行もこの白山に参っています。
斉藤実盛が討たれた加賀の篠原を過ぎ、安宅の渡し(「関」ではない)を越えて、根上の松に着きました。そこは白山に法施(神仏に対し経を読み、法文を唱えること)を手向ける場所だとして、岩本の十一面観音(現能美市 巌根宮)に参籠します。翌日白山社に参り、その日は剣の権現(現白山市 金剣宮)に参籠しました。
逃亡の旅であるにもかかわらず、白山付近に二泊もしているのは、白山権現の利益がただならぬものと信じられていたからでしょうか。
源平の時代関連では、白山比盗_社には藤原秀衡が奉納したと伝えられている木製の狛犬が一対残されています。
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