Vol.7 安宅関・弁慶謝罪の地


■安宅関■
安宅住吉神社内にある「安宅関」の碑

謡曲『安宅』、歌舞伎『勧進帳』でおなじみの安宅関です。ストーリーは今更言うまでもないと思いますが、あらすじを簡単に。

頼朝の怒りを蒙り、都落ちする義経一行。一行は山伏姿に身をやつし、奥州を目指していました。加賀国安宅関まで来たとき、一行は関守の富樫某に呼び止められます。山伏ならば勧進帳を持参しているであろうと富樫は詰め寄りました。が、もともと勧進帳などありはしません。弁慶は「勧進帳」と称して偽の巻物を広げ、即興で「勧進帳」読み上げます。
納得した富樫は、一行の通行を許可しますが、一行の中に義経によく似た強力(修験者の荷物を背負う従僕)がいるのを見咎めます。

総じてこの程よりややもすれば判官どのよと怪しめられるるは、おのれが仕業の拙きゆえなり。ムム、思えば憎し、憎し憎し、いで物見せん。

(意訳)総じて先日来、ややもすると「もしや判官殿では?」と怪しまれるのは、己の所業の拙さゆえであろう。ムム・・・考えると憎らしいこと。憎らしい、憎らしい、目に物見せてくれよう。

  






そういって弁慶は強力に扮した主君義経を金剛杖で打ち据えたのでした。
これによって、よもや義経一行ではあるまいと判断した富樫は、一行の通行を許可したのでした。




















さて、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関ですが、実は『義経記』などには「安宅の渡し」とあり、「安宅関」とは出てきません。
また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅で、加賀にやってきますが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はまだなかったようです。
18〜19世紀の加賀の地誌(富田景周『三州記』など)にようやく「安宅関」の記載が見られ、天保11年(1840)3月河原崎座で初演された『勧進帳』によって「安宅関」の名は全国的に広まったようです。

また、弁慶が義経を打ち据えた話は『義経記』では越中の如意の渡し(現富山県高岡市)でのこととして記載されています。

この話に登場する関守の富樫某ですが、富樫氏は現在の野々市町を本拠とする加賀の有力武士で、源平合戦では、林氏ら、同じ加賀在住の武士らと共に木曽義仲に強力します。
なぜ、野々市の武士が現小松市の安宅の関所の関守として登場するのか。そこには謡曲『安宅』の成立当時(15世紀半ばごろ)の渾沌とした政治状況が大きく絡んでいるようです。



安宅住吉神社















偽の「勧進帳」を読み上げる弁慶の像。安宅住吉神社境内にある。


【アクセス】小松市安宅町
JR小松駅よりバスあり(北鉄バス長崎・安宅漁協行き「関所前」下車 徒歩5分)
北陸自動車道小松ICより約5分
駐車場有

関連サイト  勧進帳の里 安宅の関

■弁慶謝罪の地■
弁慶の機転で、関所を通過した義経一行でしたが、関守の厳しい追及をかわすためとはいえ、主君を打擲したことを謝罪します。
それに対し義経は、弁慶の機転がなかったら、皆捕まっていたであろうと弁慶の機転を讃えたのでした。普段は涙を見せたことのない弁慶も、このときばかりは涙を流し、非礼を詫びたということです。

【アクセス】能美市道林町(道林寺跡)
       公民館前に写真の銅像があります。


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