Vol.10 平時忠の墓



年たけ齢傾いて、さしもむつまじかりける妻子にも、皆別れ果てゝ、はるばると下り給ふに、「かれは志賀唐崎、これは真野の入江、堅田の浦」と申しければ、大納言泣く泣く詠じ給ひけり。

  帰りこん事は堅田の引く網の目にもたまらぬ我が涙かな


(『平家物語』巻12 「平大納言の流されの事」)


(意訳)
(大納言時忠は)高齢になり、長年睦んだ妻子とも皆別れ果てて、はるばると流刑の地である能登へ向けて下りなさいましたが、道中供の者が、「あれは志賀の唐崎、これは真野の入江、堅田の浦・・・」と申し上げると、大納言は涙を流して詠じなさいました。

  帰りこん・・・(都に帰ることももはやかなわぬと思うと、とめどなく涙が流れてくることだ。)



■平時忠

時忠は平時信の子で、姉時子は清盛の妻(二位の尼)、また、妹の滋子は後白河法皇の女御で、高倉天皇を生んだ。正二位権大納言に進み、高倉帝の外戚として、権勢を欲しいままにした。平家の権勢というと清盛ばかりに目が行くが、時忠はある意味清盛以上に権勢を誇っていたといえるのかもしれない。
「平家にあらずんば人にあらず。」という有名な言葉を吐いたのも、この人である。

時忠は、検非違使の別当(長官)に3度もなって、搦めとった盗賊らの腕を切り落として追放したり、屋島にて、和睦交渉に訪れた朝廷の使者の顔に「波形」という焼印を押したりと、その所業はなかなかに凄まじい。

寿永4年(1185)、壇ノ浦で捕縛された時忠は、しばらく都に留め置かれたが、能登に配流が決まった。
捕縛の後、時忠は源義経のもとに自分の愛娘を嫁がせる。源氏方の目に留まっては大変なことになるであろう文が義経に取られてあるので、それを取り返さんがための婚姻だったという。果たして無事に件の文を取り返した時忠は、文を焼き捨てたというが、一体どんなことが書かれた文だったのか、今となっては知る由もない。

『吾妻鏡』によると、文治5年(1189)、時忠は配所にて死去した。ただし、時忠の末裔である則貞家(時忠の子時康が祖)の伝承では、元久元年(1204)4月24日に没したと伝えられているという。





■墓所

平時忠および平家一門の墓所は能登の山中に、ひっそりと身を隠すようにしてある。

能登の海岸線に沿ってR249を珠洲市方面に走る。珠洲市に入って間もなく道が二股に分かれるので、右側の道を山に向かって進んでいく。しばらくいくと左手に大きな案内板が掲げられ、駐車スペースになっている場所がある。そこに車を止めて道標に従って道路右側の坂(谷!?)を下りていく。7、80メートルほど下ったところに、籬で囲われた一角が現れる。その中が、時忠らを祀った空間である。

坂を下ると畑が目の前に広がり、畑と対面するように墓所の入り口がある。
中に入ると10基あまりの五輪塔が整然と並んでいる。外の蒸し暑さを忘れるような、身の引き締まるような空間である。
入り口から2,3個目の、ひときわ大きな五輪塔が時忠のものだという。

都にあって、平家の一門として、また帝の外戚として権力を振るっていた事実と、能登の山中に、人目を憚るようにひっそりと葬られている現実と・・・。同じ人の辿った運命である。「諸行無常」という『平家物語』の冒頭の言葉が改めて思い出される。



時忠墓所入り口













墓所の入り口


時忠の五輪塔













時忠の五輪塔



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