其の四 天下人の孤独


つゆと落ちつゆと消えにし我が身かな
なにわのことは夢の又夢

慶長3年(1598)8月18日、天下人豊臣秀吉は我が身を「露」とたとえた辞世を残してこの世を去った。
一介の百姓の倅から身を起こし、織田信長にとりたてられ、信長の死後はその後継者として、ひたすらに天下統一につき走った生涯だった。太閤という異例の官職につき、思うがままの人生を歩んだ秀吉は、史上まれに見る幸運の持ち主であった。

しかし、その死に際したときの彼の姿には、気の毒なくらい人間の哀しさがにじみ出ている。

天下統一を果たしたというものの、豊臣の天下が磐石だったわけではない。朝鮮にはまだ何万という兵が出兵していたし、なによりも自分の後継者たる秀頼は、あまりにも幼すぎた。
秀吉は我が子を輔弼するべく五大老、五奉行の制度を定め、彼らの合議によって秀頼を盛りたてていくように機構も整えた。そして、五大老に宛て、「返々秀より事たのみ申し候」と、書状をしたためた。
「なに事も此のほかにわおもひのこす事なく候」と結ばれた文面からは、権勢を振るったかつての天下人の威勢は感じられない。
どんなに他人に頼んでみても、自分の目で我が子の行く末をしかと見届けることのできない不安と苛立ち。それでも後事を「返々」頼むことしかできない苦渋がこの書状から伝わってくる。




似たような状況のもとで亡くなった王者が過去にもいた。

天智天皇である。

もっとも、天智天皇の場合、彼が亡くなるとき、その子大友皇子は秀頼のような幼子ではなく、立派に成人した大人ではあったが。

天智天皇は多くの殺戮の末に王位に就いた。
教科書的な解説を試みれば、645年の蘇我入鹿暗殺に、彼の殺戮の歴史は始まる。
蘇我宗家が滅んだ後、蘇我氏によって次期王位継承者として擁立されていた古人大兄皇子を、次いで、大化のクーデターのときには中臣鎌足とともに入鹿を倒し、新政権下では右大臣の地位にあった蘇我石川麻呂を相次いで滅ぼした。
さらに654年、孝徳天皇が亡くなると、4年後の658年には、孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の疑いで誅殺した。
こうして自分の王位に障害となる勢力をすべて排除して、4年間の称制ののち、彼は王位に就いた。

671年、天智は病の床につく。天智には大海人皇子という同母の弟がいた。『日本書紀』では「大皇弟」という名称で呼ばれ、天智の後継者の地位にあった。
天智の実子・大友皇子の母は、伊賀の釆女で、母の出身が低いために王位につくのは難しい。しかし大友が長ずるに及んで、その才気を天智は愛した。
すでに次期王位につくのは弟の大海人であることが暗黙の了解になっている中で、天智は太政大臣というポストを設けて大友に与え、政に関与させた。
その頃から大海人皇子は次第に自分が天智から疎んじられていることを悟りはじめる。大君は自分ではなく大友皇子を次期王位につけようとしているのだ、と。

天智の病が重くなった671年10月、大海人皇子は位を辞し、天智の病平癒を祈願するために仏門に入ることを願い出る。天智はこれを許し、その日のうちに大海人は武器を兵庫に納め、吉野へ去った。
政敵と見なされる者たちをすべて排除した末に王位についた天智であったが、最後の政敵を討ち損じたのである。大海人の態度が従順だったのか、それとも天智自身、病で気弱になっていたのか。
天智は大海人の隠棲を認めたが、人々は「虎に翼を着けて放てり」と評したという。

いよいよ病篤くなった天智は、左大臣蘇我赤兄、右大臣中臣金、蘇我果安(そがのはたやす)、巨勢人(こせのひと)、紀大人(きのうし)の「5人」の重臣たちと嫡子・大友皇子を枕もとに呼び寄せ、後の世のことを誓わせるのだった。



 
秀吉も天智天皇も、「5人」の者たちに後事を託してこの世を去った。

しかし、彼らの願いはむなしく、彼らの死後、世の中は乱れた。

天智天皇の死から約半年後、翼のついた虎はついに牙をむいた。672年壬申の乱勃発。そして、秀吉の場合も、死の2年後、すなわち慶長5年(1600)関ケ原の戦いが起こる。

関ケ原の戦いが、関ケ原近辺の局地的な戦いではなかったことは周知の通りであろうが、壬申の乱もまた、畿内のみの戦闘にとどまらなかった。正確に言えば、実際の戦闘が行われたのは畿内だけであったが、大友皇子の近江朝側の兵の動員は全国規模で行われている。(もっとも戦国時代のころと古代では「全国規模」といっても、その範囲には大きな差があるが)いってみれば、古代における天下分け目の戦いといっても過言ではない。

そして、奇しくも、壬申の乱のときも、関ケ原のときも、ともに戦場となったのは関ケ原付近であった。
つまり、関ケ原は、古代と、17世紀のはじめと、2度に渡って天下取りの舞台になった。(ただし壬申の乱では、大海人皇子軍は関ケ原よりさらに進んで琵琶湖に添って南下し、大津京まで攻めてはいるが。)

東に拠って起つことの意味を、家康は古代の故事からも学んでいたのではないだろうか。

歴史は繰り返される・・・のだろうか?



天智天皇の死に関して、『扶桑略記』(平安時代末/著者・皇円)に奇妙な話がある。

天智天皇は、馬に乗って山科郷まで遠出したまま帰らなかった。林の奥深くに入り込んでしまい、どこで亡くなったのかわからなかった。天皇の履いていた沓(くつ)が落ちていたので、そこを山陵とすることにした。

天智天皇は山の奥深くで人知れずひっそりと亡くなったのだという。遠山美都男氏は、この天智の話を神仙の思想と結びつけて論じておられるが、権勢を誇った王者の死にしては、あまりにも寂しすぎる。誰に見取られるでもなくひそやかに黄泉路へと旅立ったというこの話は、「王者の孤独」が象徴されているようで、人間の哀しさが感じられて仕方がないのだが・・・。

 


 

*おことわり−1
「天皇」という名称は、天智の時代にはまだ使われていなかったであろうし、「天智」の名も、死後に贈られた名称であるが、ここでは便宜的に「天智天皇」と呼んだ。

*おことわり−2
大海人皇子については、天智より年長だった、同母の兄弟ではなかったなど、諸説あるが、ここでは通説に従って、天智の同母弟ということにした。「大皇弟(あるいは皇太弟)」という名称も、通説通り皇太子の意味で用いた。

2002.4.19


 

 

 

 

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