大来皇女之巻

 

 

大来皇女ohku-no-himemiko(661〜701)

661年天武天皇(大海人皇子)と太田皇女の間に生まれる。同母の弟に大津皇子がいる。
壬申の乱の翌年、伊勢斎王(さいおう、いつきのひめみこ)に選定され、翌674年伊勢神宮に下向。
686年天武天皇の崩御により任を解かれ、同年11月帰京。(一説に、大津皇子の謀反のためとも言われる。)12年間に渡って、伊勢斎王として彼の地にあった。
晩年の皇女に関しては詳らかでないが、『薬師寺縁起』によると、伊賀国名張郡夏見に昌福寺(夏見廃寺)を建立し、亡き両親の菩提を弔ったという。
『万葉集』に数首の歌を残している。
701年没。41歳。


 

斎王の系譜

※大来皇女を語る上で、斎王のことはどうしてもはずすことができません。したがって、少々脱線しますが、斎王について簡単に解説を加えます。


斎王(「さいおう」あるいは「いつきのひめみこ」という。)とは、伊勢神宮の奉祀の最高責任者として実際に伊勢に赴いてお祀りをした人である。斎王の住まいを「斎宮」といい、その建物の名前が、そこに住む人を表す言葉にもなり、「斎王」のことを、「斎宮」という場合もある。

斎王の職掌は、伊勢神宮の奉祀であるが、朝から晩まで、年がら年中お祭りをしていたわけではない。普段のお祭りは主神司が中心になって行われ、斎王は直接関与しなかった。斎王が直接関与するのは、9月の神嘗祭、6月と2月の月次祭の年3回のお祭りだけ。(三節祭)
それ以外は斎宮に居住して潔斎生活を送っていた。


『延喜式』によると、「天皇位に即きたまはば、伊勢の大神宮の斎王を定めよ。仍りて内親王の未だ嫁がざる者を簡(えら)びて卜せよ。」とある。つまり、天皇が代わるごとに内親王(天皇の娘)の中から未婚の者を卜占によって選び、斎王として、伊勢神宮で奉祀にあたらせた。(天皇に実娘がいない場合、皇族の中の女性から選ばれた。)
ただし、『延喜式』に記されているような、斎王が制度として整ったのは、平安時代以後で、それ以前はどうだったかと言えば、崇神天皇のとき、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が斎王として立ったのが正史に見える斎王のはじめである。その後も数名の斎王が立っているが、暫定的であり、必ずしも、天皇の代替わりごとに、という規定はなかったようである。
大来皇女が制度としての斎王のはじめと言われている。

壬申の乱の折、朝明(あさけ)川(現三重県四日市市)のほとりで大海人皇子は天照大神を遥拝し、我軍の戦勝を祈願した。結果、乱に勝利した大海人は、伊勢神宮を「皇室の祖先神」として位置付け、天皇に代わって伊勢神宮に奉祀する斎王を派遣することになった。そこで当時12歳だった大来皇女に白羽の矢が立った。

斎王に決定したからといって、すぐに伊勢に赴くわけではない。斎王は神の奉仕者の最高責任者として、その身は穢れなき身でなければならない。したがって、大来皇女も伊勢に赴く前にその身を清めるために初瀬の斎宮に赴き、精進潔斎した。1年間の精進の後、674年、いよいよ伊勢に向けて出発した。大来皇女がどの道を通って伊勢に下向したかは明らかではないが、その途上でも、潔斎を行い、身も心も神に近づくかたちで伊勢に向かったのである。現在、初瀬川上流の桜井市上之郷にある小夫天神社には、大来皇女が祀られているそうだが、大来皇女の頓宮(斎王が潔斎する仮宮)ではないかといわれている。

ちなみに、任を終えた斎王が都へ帰還する際にも、その途上で禊を行う。禊は身を清浄にするという意味合いがあるのはもちろんだが、日常(都、俗、褻)から非日常(伊勢、聖、晴)、非日常から日常への媒介儀礼だったとみなすことができる。

674年14歳で伊勢神宮の斎王になった大来皇女は、その後12年間にわたって、彼の地にあって、神の奉仕者としての勤めを果たすのである。

 

『万葉集』にみえる大来皇女の歌をめぐって…

大来皇女は万葉集に数首の歌を残している。いずれも同母弟大津皇子を思って歌ったものである。その中で、「大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の作りませる御歌ニ首」として次の歌を載せている。

わが背子を大和に遣るとさ夜深けて暁(あかとき)露にわが立ち濡れし(『万葉集』巻第二105)
 
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(同106)


686年のことである。同年9月9日、大来の父天武天皇崩御。この後、殯宮が建てられ、殯の儀式が執り行われる。翌10月2日には、大津の「謀反」が発覚し、翌日刑に処せられた。
大津がいつ伊勢に赴いたかは明らかではないが、大来の歌に「秋山」とあることから、おそらく天武の殯の最中に行ったのであろうか。
ところで、105、106の題詞に「竊かに」という言葉が使われているが、大津が人目を忍んで姉に会いに行った真意はどこにあったのだろうか。
斎宮は、男子禁制の神域である。たとえ天皇であろうとも、そこに立ち入ることは許されない。実の弟でも事情は同じで、発覚すれば、即処刑されるのは火を見るより明らかである。そんな危険を侵してまで姉に会いに行ったところの真意とは…。ひたすら姉恋しさに会いに行ったとはおよそ考えられない。
斎王はいわば天皇と同格の立場にある。天皇の奉じる神を斎き祀っているのだから、俗世にまみれていない分、神聖なる点においては天皇より上といってもいいかもしれない。


「伊勢神宮を味方に引き入れる」---


そんな思いが大津の中にあったのではないだろうか。かつて東に拠って起った父・天武が天下を取ったように、自分もまた父のように、ということを夢想していたとみるのは考えすぎだろうか。

10数年ぶりの姉弟の再会である。言葉にならない言葉をかみ締めてお互い会ったのだろう。そして、弟の悲壮な決意を知らされたとき、大来はどう反応しただろう。あるいは姉の顔を見て、大津は自分の決意を告げることを止めてしまったのだろうか。
いずれにしても、大来の歌から察して、大津が自分の描いたような結果に話がまとまらなかったのだろう。その後姿を見送る大来の心に、言い知れぬ不安がひたひたと押し寄せていた。


9月24日、殯の儀式の際、大津が皇太子(草壁皇子)を「謀反(かたぶ)けんと」した。
10月2日、大津の「謀反(みかどかたぶ)け」ようとしたことが発覚し、捕らえられる。
同3日、大津、死を賜る。


大来が京師に帰還したのは、一連の大津の事件が「落着」してから後のことだった。
すなわち、大津の死の1ヵ月半余り後、11月16日に大来は京師・大和の地を踏んだ。
「京師に帰還」とはいっても、大来にとって大和の地は懐かしさのかけらもない地だったはずだ。少女時代を近江で過ごした彼女は、壬申の乱で勝利した天武が大和に京師を定めてすぐに、伊勢に下向したのだから。幼くして母を失い、父帝も薨り、そして、唯一の身内であった弟皇子ももはやこの世の人ではない。


神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに(同163)

見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬つかるるに(同164)


大来は孤独だった。ふと口をついて出たのであろうこれらの歌に、彼女の孤独が染み渡っている。
斎王という職も、ある意味孤独には違いない。俗世との縁を絶ち、ただひたすら神に仕えるという職掌であるから。それでも伊勢にあった頃は、愛しい者が京師にいるという実感があった。現実に京師に来てみれば、愛しい者はもはやいない。その現実を受け入れることは、大来にはひどく困難だったに違いない。大来の目に、冬枯れの京師はどんな風に映ったことだろう。


大津の屍を二上山に移葬したときの歌がある。

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背(いろせ)とわが見む(同165)


二上山はその名の通り、峰が二つに分かれていて、それぞれ雄岳、雌岳と呼ばれている。山でさえあのように仲良く寄り添っているというのに、うつし身の自分には寄り添うべき者もいない。せめてあの山をわが弟と見ることにしよう---


なお、大津が二上山に移葬されたことは、正史には記載されていない。


また、目に留めた馬酔木の花を見て

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといわなくに(同166)

おそらく馬酔木の可憐な白い花を大津は愛したのだろう。それを大来もまた知っていて、目にした馬酔木を手折ろうとした、けれどもそれを愛した人はいないという現実に打ちのめされて---

 

晩年の大来皇女

その後の大来皇女がどのように生きたのかは詳らかではない。
記録にも見えないから、おそらく一生独り身のまま暮らしたのだろう。


『薬師寺縁起』によると、その後、大来皇女は伊賀国名張郡夏見に昌福寺を建立し、亡き両親の菩提を弔ったという。「夏見廃寺」と呼ばれるこの寺で、父、母、そして弟皇子の菩提を弔い、念仏三昧の生活をして過ごしていたのだろうか。

701年この幸薄き皇女は41歳の生涯を閉じる。奇しくもこの年、後の聖武天皇となる首皇子、後の光明皇后・安宿媛が前後して生まれている。
大津を死に追いやった持統天皇が崩御したのは、大来の死の翌年のことであった。

 


大来皇女のことを知りたい方、こちらをご覧ください >>大来皇女をしのぶ会

※本文中の『万葉集』は講談社文庫『万葉集(一)』(中西進)を引用しました

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