二人の「長知」〜太田但馬守誅殺事件〜



●太田長知(おおた ながとも) ?〜慶長7年(1602)

但馬守、1万5千石
前田氏家臣。長知の母は芳春院の姉であり、加賀藩第2代藩主前田利長の従兄弟にあたる。
天正15年(1587)豊前巌石城の戦い、同18年(1590)武蔵八王子城攻撃で軍功をあげた。慶長5年(1600)利長の大聖寺攻めに従い、帰途浅井畷で丹羽長重の攻撃を受けた時、殿軍を勤めて奮戦した。
同7年(1602)利長の命を受けた横山長知に殺害された。


●横山長知(よこやま ながちか) 永禄11年(1566)〜正保3年(1646)

山城守、通称大膳
加賀八家(加賀藩の年寄、他藩では家老に相当)横山家の2代。3万石
天正10年(1582)父長隆とともに前田利家に仕える。慶長4年(1599)利長が家康から謀反の嫌疑を受けた時、弁明に赴き、前田家は事なきを得た。
一時、利長の咎めを受けて京都に閉居したが、大阪の陣のときに許され、その後は加賀藩の執政として国政を預かった。


●山崎長徳(やまざき ながのり) 天文21年(1552)〜元和6年(1620)

長門守、閑斎
賤ケ岳合戦後、利家、利長に仕え、慶長5年(1600)加賀大聖寺城攻撃の軍功により加増され、1万4千石領有。



■太田但馬誅殺事件の概略■


 慶長7年(1602)5月4日、金沢城内で前田利長の老臣太田但馬守長知が殺害された。殺害したのは利長の命を受けた横山長知。


 利長は最初、山崎閑斎と横山の二名に太田殺害を命じていたが、山崎は約束の時間に遅参したため、横山は、助太刀として連れて行った御馬廻組の勝尾半左衛門とともに太田を成敗した。
 成敗のようすは諸本によって異同はあるが、『象賢紀略』には、このとき、太田は横山の帷子を斬り、助太刀の勝尾へも肩に一太刀あびせ、更にその場にもう一人いた者(「大膳普請奉行」とある)にも、転んだ拍子にその脛を脇差があたり、都合3名に怪我を負わせて、必死で防戦した、とある。
 後々人々はこの太田の奮闘ぶりを賞賛したという。


 また、『可観小説』の「一、太田誅せらるヽ事」(可観(2))では、ここに、更に長刀を手にした利長が登場し、止めを刺す。利長は「主人の目をくらます不届き者め!」と太田に罵声をあびせ、長刀で太田を突いた。太田は言葉も出せずにただ首を振るばかりであったが、やがて事切れた。



■太田但馬殺害の理由■


 太田但馬は利長とは従兄弟の間柄であり、数々の戦で利長に従って種々の戦功を挙げてきた。浅井畷の戦の後にはその戦功をねぎらって感状を送られており、利長にとっては功績者の一人といえる。その太田を利長は何ゆえ殺害しなければならなかったか。


 『石川県姓氏歴史人物辞典』などでは「その理由は未詳」としている。


 また、太田誅殺は間もなく近隣の国々にも知らされたようで、隣国越後の堀秀治(「仍太田但馬事被仰付候事、実候哉、・・・中納言殿へ以書状可申上候へ共、慥之義不存候条・・・」横山大膳宛)や新発田城主溝口秀勝(「太田但馬殿義不届族御座候に付而被仰付様に承驚入存候・・・」利長宛)が、慰問しているが、その書状はいずれも事情が飲み込めず、困惑気味である。


 ここに少々興味深い逸話がある。
『可観小説』と『三壺聞書』に記載されているもので、いずれもこの誅殺劇は狐の所為としている。以下長くなるが、引用する。


〔三壺聞書〕太田但馬御成敗之事

・・・但馬居屋敷露地の内にて狐の子を狩出し捕へ、色々になぶりさけばせければ、親狐とおぼしくて、堀の上にあがり身をもだへてさけびけり。猶面白く思ひて、脇指をぬきひたなぶりにして、終に殺し捨てければ、親狐是を恨み、何処共なくうせ、夜る夜る来てさけびけるが、或時御城にて御能有之節、御広式女中方はみすの内にて見物也。其の女中の中に但馬を見初め、扨々器量のよき人やと殊の外ほめなし、能は不見して但馬に目を放さず守り居たりけるを、出頭の女中是を見て御耳に入れ奉る。誠に女はつれなき心中かな。彼の但馬をほめたる女中、御前うとくなりしを心に懸けて有りけるが、或夜女中部屋の縁通りを忍びたる躰にて塀を越えて出づるを、利長公一両度御覧有しが、扨々にくき次第と思召し、山崎閑斎・横山山城に但馬を可討と被仰渡、日限を極め支度を致し、但馬登城を待居たり。閑斎は時刻失念にてや有りけん遅参に及ぶ。其の内に但馬登城し、御式台を過ぎて廊下より御広間へ出づる所を、山城御意也とて抜打に討ちければ、大げさに切られながら、心得たりとぬき合わせける所へ、勝尾半左衛門出で助太刀を打ち、二の刀にて横山討ち討留めける。利長公御感ありて、但馬死骸を城中極楽橋の爪に置かせられ、主君の目をぬく徒者の果を見せしめよと被仰出。但馬に恋慕の女房、一味の女五人御露地の内に縛り置き、宮崎蔵人に被仰付、竹の筒にて目を打出し、其の後殺害日仰付、山城は御加増を被下ける。・・・



〔可観小説〕一、太田但馬誅殺せらるヽ事
 (注:先に取り上げた話とは別に『可観小説』ではもう一つ太田の誅殺の話を載せる。こちらを「可観(1)」とする。)


・・・或時但馬鷹野に出かけるに、路傍に狐の子あそべり。但馬捕之云様は、人を悩す妖獣の子也。嬲殺しにせんとて打擲し、終に狐児を殺せり。おや狐見之大に愁えへ、頓て但馬が下女に詑し、狂妄して云様は、罪なき我子を嬲殺せり。此怨念何方へ行べき哉。みよ近日太田を殺し思ひ知らせんと云けり。其頃利長卿寵愛第一の妾あり。城外に屋敷を構て入置、折節忍びて通はれけり。或夜其所へ忍びけるに、奥の方に一人の男子みえたり。太田但馬とみえて庭中へ逃出たり。黄門不思議におもひ、但馬を疑ふ。然共黄門舌頭へも出し不給。其後又妾の所へ通ひけるに、又但馬忍べる躰にみえて行方不知成たり。今は腹にすゑかね、横山山城に命じ、実否糾明もなく、一旦に妾も但馬も誅殺せられけり。皆人不審し哀れ悲めり。但馬其夜は高山南坊宅へ招請せられ、夜更る迄酒宴に及びければ、寵妾の方へ可通様もなし。其上深閨の内、誰人か可到様はなし。然るに何の詰問もなく、火急に誅殺成けり。後日に能穿議ありければ、件の妖狐の所為なりとて、黄門甚後悔せられけると也。

 

『三壺聞記』も『可観(1)』も太田は狐の子を殺した報いで殺されたことになっているが、狐に化かされたのは太田だけではない。利長もまた狐に化かされていたことになる。
 ことに『可観(1)』では、取り調べもないまま太田を殺害してしまったのを、狐の所為と知ったとき、利長は深く後悔している。
 また、玉藻の前の話のように、太田が通っていた利長の妾が狐なのではない。一連の事件の演出が狐によるものとしているのであり、いわば催眠術にかけられたような状態で、妾も太田も利長も「動かされていた」のである。


 さらに『三壺聞書』では、狐を殺した太田がその報いで死んだ話とは対照的に、その後半で、狐の恨みを結果として晴らす形となった横山の幸運(横山家が栄えたこと)が記されている。
 これは、畜類といっても、むやみにいじめるとその報いは必ずあるといった、単なる「教訓」を物語っているだけなのだろうか。


 いったいこの「狐」とは何ものであるのか。『三壺聞記』も『可観(1)』も、この事件の百年余後に書かれたものであり、すでに事件の真相はあいまいなものになっていたとしても不思議ではない。原因の不確かさゆえにこれは狐の仕業であると片付けてしまったのか、それともこの事件の陰に「大きな力」が働いていたことを暗に言い含めているのであろうか・・・。


 『可観小説』には狐の話とは別に、もう一つの「太田但馬誅せらるヽ事」(可観(2))がある。その中に、原因の手がかりともいえそうな記述がある。


 それによると、太田は関ヶ原以後江戸への御使を勤めていたが、家康がたいそう懇意にして、浅井畷のことを尋ねたりして饗応し、馬や刀などまで下された。利長はこれを聞いて「如何思召候や」、横山と山崎に太田の殺害を命じたというのである。
 将軍家と誼を通じることは前田家にとって決して不利なことではない。だが、個人的に馬や刀を下賜されるほどに実懇になったことで、かえって利長は危機感をつのらせたのではないだろうか。ひょっとして関ヶ原前夜の家中の動揺にまで太田は言及しているのではないかと・・・。


 また、『象賢紀略』では、太田側の人物、横山側の人物として十数人の家中の者の名を上げている。
 太田側の人間として、中川宗半(光重)、篠原出羽(一孝)ら十数人、横山側の人物として長九郎左衛門、高山南坊(右近)ら十人余を上げている。前田家中の錚々たる人々である。
 太田は数々の軍功を上げ、智謀もあって力量も人に勝っていたというから、人をひきつける力のある人物であったのだろう。慶長5年(1600)の大聖寺攻め以来、家中には太田に肩を並べるものがいなかったという。時には主君をないがしろにするような驕った振る舞いもあったのかもしれない。そういう太田を快く思わないものもいたであろうし、双方の確執を太田の殺害ということで決着をつけたことも、おおいに考えられる。
 この事件の前年(慶長6年)9月には、徳川秀忠の女子々姫(珠姫・天徳院)が利長の養嗣子猿千代(犬千代・後の利常)のもとに輿入れしてきており、公儀の手前、家中が二つに分かれることはなんとしても避けねばならないことであった。


 さらに、前出の狐の話のところでも利長の妾について触れていたが、『象賢紀略』に、太田が殺された後、御手掛衆(妾)の「おいま」をはじめ、中使の者5人が目を抜かれ、見せしめとして家中の人持衆十人ほどに示したと記されている。
 どうやら太田殺害の直接の原因は、太田と利長の妾との不義密通といえそうである。
 太田粛清にあたって、横山と共に利長の命を受けた山崎閑斎は、約束の時間に遅参し、直接殺害には関与しなかった。そしてこの事件の後、それまで兄弟のように仲の良かった横山との仲が悪くなったというが、それは連座した女中の中に山崎の縁者がいたせいであろうか。


 太田の不義密通、あまりに懇意になりすぎた家康(幕府)と太田との関係、家中が二つに割れる危機。これらが複雑に絡み合って結果、太田の誅殺となったのではないだろうか。


 殺害を実行する10日程前に、利長は横山に太田殺害を命じたそうであるが、その時「大膳被申分、利長公被仰分、色々さまざま之儀、後にきこえ申候事」(『象賢紀略』)と、利長と横山の間でもこの件に関してさまざまな議論があったと後に言われるくらいで、ことは秘密裏の内に実行された。


 太田の不義密通、家康(幕府)との実懇な関係、家中の分裂―これらはいずれも公にすることはできない。隠し通さねばならない。そのために作り出されたのが先の狐の話だったのではなかったか。狐の報復による奇異な事件とすることで真相を闇に葬り去る必要があったのではないだろうか。
 真相が解明されない不可解な事件だけに、殺された太田に同情する者がいたり、ひいては利長自身がそれを悔やんだりといった話が出来上がったのだろう。


百万石の光の裏には、深い闇があった。


参考文献
   『加賀藩史料』
   『三壺聞書』
   『可観小説』
   『象賢紀略』(『御夜話集』所収)
   「片山伊賀・太田但馬誅殺事件」池田こういち(別冊歴史読本『前田利家』所収)

  
『君君臣臣』大地恕軒


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