上杉景勝
Uesugi Kagekatsu

(1555〜1623)

 

略歴  謙信と景勝  御館の乱 越後領内平定 秀吉政権時代

会津転封と関ヶ原の戦い  大坂の陣  景勝の家族

 

■略歴

弘治元年(1555)11月27日、坂戸城主長尾政景の次男として生れる。
母は謙信の姉仙桃院。幼名顕景、喜平次、卯松。
謙信の死後、御館の乱で勝利した景勝は上杉家を継ぐ。
秀吉に臣下の礼をとり、小田原征伐、文禄の役に参陣。会津120万石に封じられ、五大老に列する。
関ヶ原合戦後、米沢30万石に減封。大坂の陣に参戦し、戦功をたてる。
元和9年(1623)米沢城で死去。69歳。法名覚山院殿空山宗心大居士。

 


 

謙信と景勝

永禄7年(1564)7月、景勝の父政景は、舟遊びの最中、あやまって池に落ち溺死した。それにより、景勝母子は謙信の庇護を受けることになり、春日山城に移ったという。(景勝10歳)
ただし、『上杉家御年譜』にはこれ以前、永禄2年には景勝は謙信の側にいたという記述があるという。政景は、その父房景とともに謙信に背いたことがあり、仙桃院を政景の妻としたのも、多分に政略的な色彩が濃い。(ただし、仙桃院を政景に嫁がせたのは謙信ではなく、謙信の兄である。)
すると、幼い喜平次(景勝)が父親の死以前に謙信のもとにいたというのは、「人質」としてだろうか。
いずれにしても、謙信は深い愛情をもって景勝に接していたようである。

永禄11年(1568)本庄繁長が謙信に背いたとき、景勝は一軍の大将として出陣している。時に14歳。おそらくこれが、景勝の初陣であったろう。

天正3年(1575)正月、「景勝」と名を改め、弾正少弼の官位を謙信より与えられた。「弾正少弼」は、謙信が将軍足利義輝より授けられた称号であった。
また、春日山では、実城(本丸)にいた謙信が「実城様」と呼ばれていたように、中城にいた景勝は「御中城様」と呼ばれていた。天正3年2月の軍役帳では、景勝は筆頭の地位を占めている。謙信が景勝に寄せていた並々ならぬ期待が察せられよう。
なお、この時期の兼続と景勝および謙信の関係を知る手がかりは残念ながら、現在の所ない。だがおそらくは、軍役帳に筆頭の地位を占めていた景勝の家臣団の中に、兼続も名を連ねていたことだろう。

 


 

  おたて
御館の乱
    >>御館の乱の経緯

天正6年(1578)3月13日、上杉謙信死去。
実子のない謙信は、景勝のほかに、質に取っていた北条氏康の子三郎景虎を養子にしていた。
謙信の死は突然であり、後継者を定めていなかったので、景勝と景虎の間での後継者争いは必至だった。
謙信がいずれを後継者にしようとしていたかは様々に議論されている。整理すると、次のように分類できる。

・景勝後継者説
・景虎後継者説
・後継者二人説
・後継者不明説(謙信の遺言はなかった)

謙信の病床近くに伺候していた直江景綱夫人(兼続の妻・おせんの方の母)が、「家督は誰に譲るのか、景勝公か」と尋ねたところ、もの言えぬ謙信が頷いた、という話は有名である。

いずれにしろ、景勝は「謙信の遺言」という名目で実城(本丸)を占拠した。実城にもっとも近い二の曲輪に居住していた景虎も、この占拠をすぐには知らなかったという。実城占拠は密かにかつ迅速に行なわれた。
実城を占拠した景勝は、謙信の遺言により、自分が謙信の後継者であることを近隣の諸氏に報じた。

5月になると、本格的な戦闘が、府中(現上越市)で繰り広げられる。
景虎は、前関東管領上杉憲政が居住していた御館に妻子を連れて立てこもった。
景虎の窮地を知った実家の小田原北条氏は、甲斐の武田勝頼に景虎の救援を要請、勝頼は5月29日に出兵するが、翌6月には、景勝と勝頼の間で和議が成立。勝頼は、妹菊姫を景勝に嫁がせることを約する。(同年12月婚約。天正7年10月輿入れ。)
8月には勝頼の斡旋により、景勝と景虎の間で和議が成立するが、すぐに破談となった。

9月初旬、北条氏照・氏邦が、景虎救援のため、越後に侵入し、樺沢城、坂戸城を攻撃した。氏照らは、樺沢城に北条(きたじょう)輔広、河田重親を、御館に北条(きたじょう)高広を置き、9月下旬、帰国した。

その後も両者のにらみ合いは続き、翌天正7年2月1日、景勝は御館に攻撃を仕掛けた。3月17日、景勝軍の猛攻の前に御館はついに落城。景虎は、辛くもここを脱出した。

ところで、景虎の妻は景勝の妹である。御館には、景虎と共に妹もいた。御館を攻めるとき、景勝は、妹の救出を考えなかったのだろうか。

進退極まった景虎は、ここで共に自害して果てようと妻に言ったところ、彼女は毅然と言い放った。
「私は女の身であるから、命など、少しも惜しくはない。けれど、あなたさまはどんなことがあっても生き延び、甲府と相府を頼りなさって本懐を遂げてください。」と。
妻の言葉に力を得て、景虎は御館を脱する。
残された影虎夫人とお側仕えの者たちは自害して果てた。景虎に従う侍衆は、自分の家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して景虎に従った。
近年、御館跡の発掘の際、さまざまな出土品の中に、多くの人骨や櫛・かんざしの類が混じって出土したという。
地獄絵さながらの光景、炎に身を焼かれ、抗う術もなく果てていった女や子供たち…彼らの最期が憐れでならない。

景虎が御館を脱した後、上杉憲政は、景虎の長男で、当時9歳だった道満丸を伴い、和議の仲裁のため、春日山城へ向かった。しかしその途上、道満丸とともに斬殺されてしまった。

一方、御館を脱した景虎は、信濃方面に向かい、鮫ヶ尾城へ逃げ込んだ。だが、城内はすでに景勝の手が回っており、もはやこれまでと、3月24日、景虎は自害して果てた。(景虎26歳)

敵の大将景虎が自刃したことで、乱は一応終息したが、その後も景勝に抵抗する者はあとを絶たなかった。
景勝は抵抗する本庄秀綱の栃尾城、神余親綱の三条城をそれぞれ4月、7月に破り、明けて天正9年2月には、北条輔広の北条城などを攻略した。ここに謙信の死後勃発した一連の動乱は終息し、景勝は名実共に謙信の後継者になった。
ただし、天正8年8月に、甲斐の武田勝頼が景勝の戦勝を祝う書状などを送ってきたところを見ると、この段階で一応の終息を見たということだろう。

兼続は、景勝の近習としてこの乱に戦功を立てたとするが、詳細は詳らかでない。だが、8月15日付で奉行として佐藤庄左衛門、皆川式部丞に知行状を出していることから、景勝の側近として頭角を顕してきたと言えるだろう。(この書状が「兼続」と署名されたものの初見という。)

 




越後領内平定     >>新発田城攻略の経緯

御館の乱の論功行賞に不満をもつ者たちが、景勝に抵抗した。

天正9年(1581)9月、毛利秀広が景勝の側近山崎秀仙を斬殺するという事件が起きた。秀広は御館の乱の恩賞がないのは秀仙の讒言によるものとして秀仙を殺した。
秀広は捕らえられ、斬殺。この事件で巻き添えをくって死亡した直江信綱のあとを兼続が継いだ。(>>「樋口家と直江家」)

時は前後するが、同年6月、新発田城城主新発田重家が、やはり恩賞に対する不満から信長に内通し、景勝に背いた。この後、実に6年余に渡って重家との抗争は続く。
その間、天正10年6月本能寺で信長が討たれ、同時期景勝は魚津城、松倉城の陥落という憂き目を見た。(>>「夢のあとさき 北陸・上越編」「兼続の奇跡 其の壱」)
信長の後を継いだ秀吉の後押しもあり、天正15年(1587)10月28日、ついに新発田城を攻略し、重家は自刃して果てた。

次に景勝が平定に向かった先は佐渡であった。
佐渡は本間一族が互いに抗争を繰り広げながらも、越後の勢力下におかれることを拒否し続けてきた。
天正17年(1589)6月12日、景勝は1000余艘の軍団を率いて佐渡に上陸。沢根城主本間左馬助の強力を得て河原田城を攻略。城主は自害。
同月16日、羽茂城を攻め、一日で陥落した。羽茂城主本間高茂は弟の赤泊城主本間高頼と共に逃亡したが、捕らえられ、斬首された。
景勝に協力した本間一族は、所領を没収された。景勝はここに兼続配下の与板衆、景勝の直臣団上田衆の者を代官として派遣、越後国内にも、景勝配下の者たちを配置し、領国支配の基礎を固めた。

 


秀吉政権時代

天正14年(1586)5月、景勝は初めて上洛を果たし、大坂城で秀吉と会見する。
これに先立って、前年の夏、越中・越後国境近くの越水(「墜水」「落水」とも。「おちみず」あるいは「おちりみず」)で秀吉・石田三成、景勝・兼続の四者会談がおこなわれたといわれている。
この時の上洛では、正四位上左近衛権少将に叙せられた。この上洛によって、信長の後を踏襲した秀吉の麾下に組み込まれたといえる。
一ヶ月あまりの滞在の後帰国。国元では新発田重家との間で確執が生じており、帰国した翌月8月には新発田討伐に出向している。

天正16年、ふたたび上洛。長年の新発田重家との抗争に決着が着いたことの報告と、秀吉の九州平定・後陽成天皇の聚楽第行幸の祝辞を述べることが主な目的だった。
このとき、景勝は従三位参議兼中将に叙せられ、同行した兼続も、従五位下山城守に叙せられた。

秀吉政権下での大きな軍事行動は、天正18年(1590)小田原北条氏征伐への参戦と、文禄元年(1592)朝鮮の役への参戦である。

小田原北条氏征伐の時、景勝は、前田利家、真田昌幸らとともに北条氏の支城攻略を命ぜられ、松井田城((上野国)、鉢形城(武蔵国)、八王子城(武蔵国)を落とした。
同年7月、小田原城が落城し、北条氏政が自刃して果てると、秀吉は、奥羽平定のため、景勝と増田長盛に出羽国の検地を命じる。しかし、検地に反対する一揆が各地で起こり、これを鎮圧し、検地が終了したのは一年余り後であった。
これによって、出羽庄内地方は上杉の支配下におかれることとなったが、この地方から産出する金銀を秀吉政権に貢献するという義務を負うことになった。

文禄元年、上杉氏は5千の兵を率いて渡韓。しかし、この戦に益あらずとして大きな戦闘は行なわなかった。兼続は、貴重な書籍の焼失を憂え、それらを収集して国に持ち帰った。

 


会津転封と関ヶ原の戦い

会津地方は、東北の伊達、関東の徳川の押えの地として秀吉の意を含む蒲生氏郷が治めていたが、氏郷が死亡すると、この地は空白になった。そこで、景勝に会津の地を治めることを命じ、慶長3年(1598)3月、景勝は先祖伝来の越後を離れ、会津に赴いた。
ところがこの年の8月に秀吉が死去。景勝はすぐに会津を発ち、伏見へ赴いた。

五大老・五奉行の制度は秀吉の晩年、幼い秀頼をささえるための機構として制度化されたもので、景勝は、五大老の一人として名を連ねている。(五大老…最初、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景。隆景死後、上杉景勝がそのあとを受け継いだ。五奉行…浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家。なお、「五大老」「五奉行」の名称は逆とする指摘もあるが、ここでは従来通りの名称とする。)

秀吉が亡くなると、五大老の一人徳川家康の専横が目立ち始め、慶長4年(1599)3月、前田利家が死去すると、それは顕著になった。先に朝鮮へ出兵していた兵を引き上げさせたが、帰国した諸将を国元へ帰し、五大老の面々も、帰国させた。中央には景勝と家康の二人が残るという状況がしばらく続いたが、その景勝も家康の勧めで同年8月会津へ帰った。

国元に帰った景勝は、領内の道路の修理や橋梁のかけ替え、城郭の整備などを行なった。特に神指原へ新城の築城を始め、兼続にこれを総監させた。
普請工事のほかにも浪人の召し抱えも行なった。上杉の招きに応じて集まった面々は、山上道及、前田慶次郎、車丹波、岡野左内、斎道二ら、勇名を馳せた者たちであった。

景勝にしてみれば、これら一連の領国経営は、120万石の大大名として当然の備えとして行なったのであるが、上杉の一連の動きをひどく警戒し、上杉家に不穏の動きありと家康に告げたのは、景勝の旧領越後に入った堀氏であった。これによって、家康は景勝の上洛を求めたが、景勝は応じなかった。
上杉家内からも、藤田信吉が上杉家を出奔。家康の元に走った。
こうした状況下で慶長5年(1600)3月13日、謙信の二十三回忌の法要が営まれ、上杉家の主立った将士はここに集った。

これまでの家康の態度は、景勝には腹にすえかねるものがあったであろう。同じ五大老の一人であるにも関わらず、あたかも秀吉の後継者であるかのような振る舞い。同じく五大老の一人前田利長は家康の執拗な攻めに屈伏する形で、母芳春院を人質として江戸に差し出した。前田家の轍は踏むまいとする気概が景勝にはあっただろう。
謙信の法要は、そのまま、家康に対する上杉家の態度決定の御前会議に移行した。上杉家は、家を挙げて家康に対抗する意を決した。

4月、家康から景勝の上洛を促す書状が到来するが、上杉側は世に言う「直江状」をもってこれに応じた。ついに家康は上杉討伐を決意し、6月16日、大坂を発つ。
7月24日、家康は下野国小山に到着、ここで石田三成挙兵の報を知った家康は、結城秀康に上杉の押えを命じ、上方へ向かった。
兼続は家康の追撃を主張したが、景勝はこれを却下。陣を払い、最上討伐に兼続を向かわせる。

9月15日関ヶ原の戦い。たった一日で決着がつき、西軍敗北。その知らせが会津の景勝の元に届いたのは半月あまり後のことだった。

翌慶長6年7月、景勝は兼続を伴い、家康に和を請うために上洛。結果、米沢30万石に減封の処分がくだされた。
その年の内に、景勝は家臣6千人を率い、米沢に移った。

 

 


大坂の陣

関ヶ原戦後の上杉家と家康の関係は、おおむね穏便だった。

慶長18年(1614)、家康は大坂城攻めの命を発する。上京途上でこれを聞いた景勝は米沢へ報じて出陣の準備をさせ、自らも大坂へ向かった。
冬の陣の戦いで、もっとも激しい戦闘が行なわれたのは、鴫野・今福であった。この部署を守ったのが、上杉家と、佐竹義宣であった。
この戦闘における上杉家将士の戦功は大きく、上杉の陣営に巡見にきた家康が、景勝にねぎらいの言葉をかけたところ、
「子供のけんかみたいなもので、少しも骨折りではなかった。」
と答えたという。
この時の戦功大きかった上杉家の将士に、幕府より、感状と賞が贈られたが、その中の一人、水原常陸介親憲は、
「関東や越後の戦で、今日は死ぬか、明日は死ぬかと思うような激しい戦の時でさえ、感状などもらったことはないのに、今回のような子供の礫打ちのような花見同然の戦で感状をもらったことだ。」と述懐したという。
また、安田上総介能元は、感状をもらってもいいくらい、獅子奮迅の働きをしてみせたが、このとき、兼続と不和で戦功が上に達せずに、感状がもらえなかった。そのことに対して安田は、「自分は殿(景勝)の御為に戦ったのであって、公方の為に戦ったのではない。だから、公方からの感状がもらえなかったからといって別に不名誉とも思わない。」と言ったという。水原にしろ安田にしろ、上杉の士風を体現している様で興味深い。

翌年の夏の陣では、上杉家は京都の守備を任されたため、前線への参戦はなかった。

元和5年(1619)、直江兼続死去。景勝はその4年後、元和9年(1623)3月2日、69年の生涯を閉じた。

 

 


景勝の家族

母・・・・・仙桃院。謙信の姉であり、兼続の才を見込んで景勝の近習に取り立てたその人である。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。82才。

正室・・・武田信玄の五女、菊姫。御館の乱のさなか、武田勝頼と和を結んだ景勝は、勝頼の妹を妻にした。慶長9年(1606)2月京・伏見で死去。菊姫との間には子はなかった。

嫡男・・・定勝。米沢藩第2代藩主。母は側室四辻氏。生母は菊姫が死去したのと同じ年に定勝を生むが、まもなく死亡。兼続夫人お船の方が母代わりにこの人を慈しんだという。

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