『鷹筑波』に前田慶次と玄旨法印(細川幽斎)との交流を示す、次のような逸話が載っている。
「似生」とはなんであるのか。これは慶次の連句会等における号ではないか―そう考えたのがそもそもの始まりだった。 『連歌総目録』という書籍がある。俳諧連歌が成立した初期の頃から元禄10年までに行われた主だった連句(聯句)会が年代順に配列され、成立年月日、種別、発句と作者、参加者と詠じた句数などが記されている。 読まれた句作の全てを知ることはできないが、その参加者から人々の交流の姿を知る手がかりにすることもできる。 さて、この書籍で「似生」を検索してみると、成立年月日不詳の1件を含め、計4件の連句会の参加者の中に「似生」の名が認められた。 『連歌総目録』に載る、「似生」参加の連句会の成立年月日、参加者は次の通りである。
さて、天正10年の連句会であるが、「[句上]有」(原本の句の上に記された注のことか)として、「句上に・・・(中略)・・・似生は前田景次郎・・・」とある。(ただし、同項の「諸本」には「前田景三郎」とある。) 「けい」の字こそ違っているが、これは前田慶次その人ではないか。つまり、「似生」は、慶次の号と考えてよさそうである。 そして、前田慶次は、天正10年当時、すでに上洛していたのである。 「句上」によると、天正10年の連句会の参加者は、玄旨法印はじめ、松永貞徳(勝熊 当時12歳くらい)、貞徳の父(永種)、宇喜田宰相(安津 「諸本」では「喜多宰相公叔父」とある。宇喜田忠家のことか)、九条禅閤東光院殿(玖)、堺政所宮内卿法印(友感)、天満森法印(由己)、妙心寺上人(可継)、溝江大炊(長澄)である。個々人の詳細は未調査だが、それぞれ相応の文化人であろうことはまちがいない。 つてがあってこうした人々と知りあったのか、そのあたりの事情はわからないが、たとえつてがあったにしても、短期間のうちにこうした人々と知り合って、このような句会に参加できるものとは考えられない。(これはあくまで私の想像であるが、多少のつてはあったとしても、慶次個人の力量による人脈の獲得という気がしてならないのであるが。) また、このときの会の「目的」は、「光源氏物語/竟宴之会」だったとある。「竟宴」とは書物の講義、編纂が終わったあとで開く宴会のことであり、源氏物語の講釈が一通り終了した、その打ち上げの連句会ということになりそうである。 そうであれば、当然慶次も源氏の講釈に参加したはずであり、どのような形で講釈が行われていたかは未知であるが、54帖ある源氏物語の講釈を終了するのはそれ相応の長期の時間が必要であろう。 永禄12年(1569)10月、織田信長の命で、前田利家が前田家の家督を継いだ。 本来ならば、利家の兄利久の養子である慶次に家督が譲られるはずであった。前田家の家督が利家に渡った後、利家が能登に封ぜられて前田の禄を食むようになるまでの10年余の間の慶次一家の消息は不明である。 だが、『乙酉集録』に記された「荒子御屋舗構之図」には、「慶次殿御屋敷」と記された一角があり、利家が家督を継いだ後何年(何ヶ月?)かは、荒子に住んでいた可能性もある。 また、『政鄰記』には、
とあり、これなども、慶次が荒子に住んでいた可能性をうかがわせる。 いつ慶次が上洛したかという点に関しては不明というしかないが、天正10年2月にはすでに上洛していたのであり、少なくともその2、3年前には上洛していたと考えられるのではないだろうか。 熱田神宮に、天正9年6月に、慶次が奉納したという太刀が伝わっているという。 このとき、上洛を決意し、長年住み慣れた故郷を離れるに当たって、その決意の程を神前に示すために奉納したものであろうか。 あるいはすでに故郷を離れていた慶次が、何らかの用事で故郷に戻ってきたとき(または、奉納するという目的で故郷に戻ってきたとき)、自らの生きる道を神前に示すために奉納したものであろうか。 |
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2004.4.8記 |
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