石田三成
Mitsunari Ishida
(1560〜1600)

 

秀吉の信任厚く、秀吉政権下で辣腕を振るった三成。秀吉の死後、関ケ原の合戦に破れ、処刑された。石田三成というと、「奸臣」「佞臣」「陰謀家」「冷血漢」……という負のイメージが常について回る。私自身、三成に対しては、かつてはマイナスのイメージしか持ち合わせていなかった。しかし、兼続とのかかわりを知るようになって、そのイメージは、払拭されねばならない類のものという考えが強くなった。

三成に対する負のイメージを払拭する…そういう観点から、三成について思うところを述べてみたい。

 

略歴

永録3年(1560)、近江国坂田郡石田に生まれる。同年兼続も生まれている。
幼名佐吉。
15歳のとき秀吉に見出され、秀吉に仕官する。秀吉に従い、数々の戦に参戦。
豊臣政権下では、数々の奉行職を歴任し、五奉行の筆頭として数々の政策を推進し、手腕を振るう。
秀吉の死後、主家豊臣家をないがしろにする家康の振る舞いに憤慨して兵を起こすが、関ケ原にて敗北。慶長5年(1600)10月1日、京六条河原にて刑に処せられる。41歳。

 

出自について■

三成の生まれた家は、近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市石田町)の有力な土豪の家だった。
父正継は、浅井氏(久政、長政)に仕えていたらしい。(詳細は不明)正澄という兄がおり、三成は石田家の次男坊として生を受けた。
次男である三成は少年時代、学問修行のために寺に入れられる。これは、貧しさゆえからではなく、当時の武家の次男、三男は、学問修行と称して寺入りすることがしばしばあった。(景虎(謙信)も、次男ゆえに幼年期、寺に預けられていた。)

 

■秀吉との出会い■

秀吉との出会いについては、「三献茶」のエピソードが有名である。天正12年(1574)、三成15歳のときのことであった。

石田三成ハ、アル寺ノ童子ナリ。一日、放鷹ニ出デ丶喉乾ク。其ノ寺ニ至リテ、誰カアル、茶ヲ点ジテ来レ、ト所望アリ。石田、大ナル茶碗ニ七、八分ニヌルクタテ丶持マイル。秀吉、之ヲ飲ミ、舌ヲ鳴ラシ、気味ヨシ、今一服トアレバ、又タテ丶之ヲ捧グ。前ヨリハ少シ熱クシテ、茶碗半ニタラズ。秀吉之ヲ飲ミ、又試ニ今一服トアル時、石田、此ノ度ハ小茶碗ニ少シ許ナルホド熱クタテ丶出ル。秀吉、之ヲ飲ミ、其ノ気ノハタラシヲ感ジ、住持ニコヒ、近侍ニ之ヲ使フニ才アリ。次第ニ取立テ、奉行職ヲ授ケラレヌト云ヘリ。
(『砕玉話』より)

秀吉への仕官に関しては、異説もあるが(三成18歳のとき、姫路にて秀吉の家臣となったと説くものもある。)、よきにつけ悪しきにつけ、三成は歴史の表舞台へと登場することになった。

 

三成と戦略■

一般に、三成は戦下手といわれている。秀吉に従って、数多の戦に参戦しているにもかかわらず、だ。
何人の首級を上げた、一番槍の手柄を取った、という戦場での活躍がものをいう戦国時代にあって、その種の戦功を上げられなかったことが、戦下手という評価を下される原因になったのだろう。以下に三成がかかわった戦を2、3取り上げて、いわれるほど三成が戦下手かどうか、見てみたい。

《天正11年(1583)賤ヶ岳合戦

加藤清正ら「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる人々と共に「先懸衆」として実戦に加わった者の中に「石田左吉」の名が見える(『一柳家記』)。もっとも名前があるというだけで、目立った槍働きはなかったのかもしれない。
この賤ヶ岳合戦のときは、実戦の場よりむしろ、裏方において三成は大きな働きをした。ひとつは兵站奉行として、兵糧や武器弾薬などの補給に携わった。第二に敵情偵察の任務である。三成が秀吉の命を受けて柴田側の動きを探らせていたことをうかがわせる古文書も残っている(「称明寺文書」)。
また、秀吉は柴田軍の後方撹乱を景勝に申し送ったが、その折衝にあたったのが三成だった。

《天正18年(1590)小田原征伐の忍城攻め》

三成が、一軍の大将として臨んだ戦いであった。しかし一方で、この城攻めの失敗によって、三成が「戦下手」といわれる要因にもなった。
一般に知らせている忍城攻めであるが、江戸期に成立した軍記物に記されている(『関八州古戦録』『成田記』など)。三成は、秀吉の備中高松城攻めに習って水攻めを思いつき、城を囲む堤を造り、城を水没させようとしたが、大雨にあって堤は決壊し、城攻めどころではなくなったという。
ところが、実際この水攻めを命じたのは秀吉自身だったという見解もある。
忍城は「浮き城」とも呼ばれており、水攻めには不向きな城であった。それを知らない三成ではなかったであろうし、三成が、水攻めに批判的な考えを抱いていたことを思わせる三成自身の書状も残っている。

《文録1年(1592)文録の役》

三成は最初大谷吉継・岡本重政らと共に船奉行を命じられ、九州・名護屋にて、進撃部隊の輸送や兵糧・武器補給のための船舶の調達などの任にあたっていた。初戦の勝利で漢城を攻略したとの報がもたらされると、秀吉は、自らの渡海を表明。しかし徳川家康、前田利家の諫止にあい、断念。秀吉に代わって、三成・増田長盛・大谷吉継が在陣総奉行として渡海することになった。
渡海した三成は、日本軍が無計画に戦線を拡大しすぎていることを憂慮し、戦線の縮小と民政の安定を説いた。
年が明けて文録2年1月、明の援軍4万が到着、平壌の小西行長軍は一蹴され、凰山の大友義統軍も逃亡した。
三成は、前線にある拠点のうち、補給に不利なところを捨て、漢城周辺に大軍を集結させて敵を迎え撃つことを提案した。諸将の反対にあうが、これを説得し、軍を集結させた。
日本軍は碧蹄館で明軍を迎え撃って大打撃を与えた。
この後戦いは膠着状態となり、三成たちは明との講和を進めるが実らず、泥濘化した戦いは、秀吉の死による撤兵まで続いた。

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以上、賤ヶ岳、小田原征伐、文録の役と、三成の戦での働きを見てきた。総じて前線に立って、実戦部隊を指揮して戦うという、戦国の世における華々しい活躍は見られないが、「兵站奉行」のようないわゆる裏方部隊でその才を発揮した。長期に及ぶ戦闘において、兵糧や武器などを補給することは、実戦にかかわると同じ位重要な意味を持つ。その意味で、三成は、戦において重要な役割を帯びていたのであり、実戦において目覚しい活躍がなかったからといって、「戦下手だった」とするのはあたらないのではないだろうか。

更に、三成と戦闘ということではずせないのは、関ケ原合戦である。
主家豊臣家をないがしろにする家康の専横は、豊臣政権を中心となって支えてきた三成にとっては絶対に許すことのできないものであった。結果として、三成は敗北の憂き目を見たが、たかだか20万石の三成が、10倍以上の石高を有する家康に対して、対等の、いや、それ以上の兵力を動員し得たということこそ、天晴れである。
専門家の方にいわせれば、関ケ原での西軍の配置は間違いなく、西軍有利のものであったという。それにもかかわらず、西軍が惨敗したのは、さまざまな時の要因が働いた結果であるのだが、少なくとも兵の動員、配置を三成自身が行ったとするなら、まさしく「大軍師」といえるのではないか。

 

■三成と兼続■

豊臣政権下において、上杉家と秀吉側の交渉は、ほとんどが三成と兼続の間で行われたものだった。
2人が折衝したと思われる事柄を、年を追って以下に見てみたい。

《天正11年(1583) 対柴田勝家戦》

柴田軍の後方攪乱を上杉方に依頼。上杉ヘは柴田側からも、援軍の依頼があったが、これには応じなかった。このころ、上杉家中では、新発田重家の反乱など、家中の混乱があり、思うように兵を進ませることができず、また、秀吉の行動が早く、勝家を破ってしまったため、結果としてこの依頼に応じることができなかった。

《天正13年(1585) 墜水(落水)の会》

秀吉が越中の佐々成政を討伐した後、越後・越中国境の墜水(落水)で、秀吉と景勝の会見があり、この席に三成と兼続も出席したという。
『上杉三代日記』などに、このときの会見のことが記されているが、史実ではなかった、とする見方もある。たとえ、膝を突き合わせた形での四者会談が行われたわけではなかったとしても、この時期に、秀吉側と景勝側で、何らかの接触はあったはずで、交渉にあたったのは、三成と兼続だったのだろう。

《天正14年(1586) 景勝上洛》

景勝は兼続を伴い、初めての上洛を果たす。このとき、景勝一行は、金沢城の前田利家の歓待を受けるが、三成は景勝一行を出迎えるため、金沢城に赴き、利家と共に景勝らを迎えている。

《天正15年(1587) 新発田重家討伐》

新発田重家討伐にあたり、三成は激励のため、兼続に鉄砲三丁を贈った。(9月)

《慶長3年(1598) 会津転封》

このときの事務処理の総指揮をとったのは三成であった。
1月10日会津転封の命が出されると、秀吉側からは三成が、上杉家からは兼続が出て、あわただしく国替えの諸々の処理を行った。
命が出された約2ヵ月後の3月6日には、景勝が会津に向けて京・伏見を立っているので、2ヵ月足らずの間に、国替えの処理が行われたことになる。

《慶長5年(1600) 関ケ原合戦》

2人のかかわりを語る上ではずせないのは、関ケ原合戦における両者の共謀である。
すなわち、東西から家康を挟み撃ちして、これを倒すという合意が、二人の間で行われていた、というものである。従来から、2人の共謀があったか否かはさまざまに言われて来た。ここでは、長くなるので、私見は示さないが、家康を除くということに関して両者は一致していたであろうし、その可能性は大いにありうる。

関ケ原における2人の共謀に関してはコチラ

 

三成と兼続は、永録3年(1560)生まれで同年齢である。一方の三成は近江の土豪の出身から身をおこし秀吉政権の中枢となって働いた。兼続も、薪炭奉行の倅という低い身分から、景勝の信頼を得て上杉家の執政として活躍した。二人の境遇はとてもよく似ている。そうした境遇の相似がお互いをひきつけたとしても不思議ではないが、「同類相哀れむ」的な感覚から、2人が接近したわけではないであろう。
秀吉、景勝の使者という立場を離れて、兼続が在京中にごくプライベートに三成を訪ねたこともあったであろう。(京の伏見では、上杉の屋敷と三成の屋敷はごく近かったという。)そんな時、二人はどんなことを語り合ったのだろうか。

秀吉は、陪臣でありながら、兼続を高く買っていた。
上杉が会津に転封されたおり、兼続に米沢30万石を与えた、と伝えられる。また、死に際しては、五大老・五奉行と共に、その遺品を拝領している。
秀吉から見れば、一大名の家臣に過ぎない兼続をこれほど高く評価していたというのは、ひとえに三成の「宣伝」の賜物であろう。

関ケ原合戦の後、兼続は自分を頼って身を寄せた三成の遺児を引き取っている。

 

三成は悪人にあらず■

現在伝えられている三成像は江戸時代を通して作られた虚像である。
歴史は常に勝者の側から語られてきた。敗者を「悪」とすることで、勝者はイデオロギーを作り出さなければならない。したがって「歴史の論理」としてはそれは仕方のないことである。
三成も、幕府の創設者、「神君家康公」にはむかった者として悪者扱いされてしまった。
しかし、当初から悪者扱いされていたわけではなく、家康の孫にあたる水戸光圀は、その家臣がまとめた『桃源遺事』の中で、「その主のためにとして義をもって、心を立てておこなったことは、たとえ敵であっても憎むべきではない」と、三成を高く評価していたと考えられる記述が見られる。
また、三成と干戈を交えた当の家康でさえ、捕らえられた三成の衣服がみすぼらしいままだったことを聞いて、近臣に対して次のように語ったという。

石田は日本の政務を取りたる者なり、…(略)軍敗れて身の置處なき姿となるとも、大将の盛衰は古今に珍しからず。命をみだりに棄てざるは将の心とする所、和漢其ためし多し。

戦いに負けたら捕虜などにならずに潔く死ぬことが戦国の武士道とされていた当時にあって、「命をみだりに棄てないのは将の心」であるとして、三成の将としての器を認めているのである。

実際、三成は、再起を賭けて身を隠した節があって、図らずも捕らえられ、首をはねられてしまった。
死に臨んで三成は、僧侶の念仏も拒み、従容として死についたという。彼の辞世は、ない。

三成の前半生については、定説がない。秀吉との出会いによって歴史の表舞台に現れるまでの記録がないのは仕方のないことだが、水口城主(近江国)、佐和山城主になった時期でさえ、定説がないのである。ひとえに、「官賊」の史料をことごとくうち捨ててしまった結果であろう。
したがって、三成を語るには、現在伝えられているものをすべて払って、白紙に戻して論じる必要があるのではないだろうか。

「三成にすぎたるものが二つあり
島の左近と佐和山の城」

と俗謡に歌われ、東軍の将から「鬼左近」と恐れられた島左近。家康と争っても、勝ち目はないとしながらも、それまでの友情に応えて三成に荷担したという大谷刑部。彼らの存在は、勝者側から語られる三成の卑小なイメージを払拭する証になっているように思われる。

「大一、大万、大吉」---
これは、三成の旗印である。これには、次のような意味がこめられているという。
「大とは天下を意味するものなり
天下のもと一人が万民のために(大一)
万民が一人のために命を注げば(大万)
すべての人間の人生は吉となり(大吉)
泰平の世が訪れる」

秀吉のまさに片腕となって、その政策を推進してきた三成にとって、一連の政策は自分が推進してきたのだという自負がもちろんあっただろう。家康の存在は、自己の存在をも揺るがしかねないものであったはずだ。いわゆる「武断派」と呼ばれる人々との間に生じた軋轢を埋める術を持たなかったのは、三成の落ち度といっていいかもしれない。関ケ原で三成が立ったのは、豊臣家に対する義を貫くため、という名分のためだけだったとは思えない。けれども、自分が築いた豊臣の世を守ろうとしたのは事実であったろうし、自分を見出してくれた秀吉の恩に報いようとしたのも事実であったと思う。
それでも、歴史は、三成には背を向け、家康に微笑んだ。

 


参考文献

『人物叢書石田三成』今井林太郎(吉川弘文堂)
『石田三成〜知の参謀の実像〜』小和田哲男(PHP新書)
『島左近のすべて』花ヶ崎盛明編(新人物往来社)など


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