お船の方
osen-no-kata
(1557〜1637)

 

 

■出自■

弘治3年(1557)与板城主直江景綱の娘として生まれる。
はじめ、上野国総社長尾顕吉の子与兵衛信綱を婿に迎える。

お船の方と信綱の間には子はなかったとされているが、高野山龍光院三十六世は、法印権大僧都清融という人だった。この人に関して、『金剛峯寺諸院家祈負輯』に「直江山城守息」とあり、『高野山春秋編年輯録』には「直江山城守庶子」とあるという。
清融は寛永8年(1631)10月22日、58才で死去しており、逆算すると天正2年(1574)の生まれということになる。
兼続が直江家を継いだのは天正9年のことであり、このとき清融8才。兼続にとっては義理の子であり、お船の方と信綱の間に生まれた子とするのが妥当だろう。(お船の方17才の時の子。)14〜6才くらいでお船の方は信綱と結婚したのだろうか。
8才の清融が高野山に行ったのは、父の菩提を弔うためであったのだろうか。

 


 

■兼続とお船の方■

信綱は景勝の馬廻大将、奉行職として、景勝を支える重職にあった。ところが御館の乱のもつれから殺害されてしまった。名家直江家の断絶を惜しんだ景勝が、兼続にお船の方を配し、直江家を継がせた。(天正9年(1581)10月頃)お船の方25才、兼続22才の時のことである。

兼続とお船の方夫婦の間柄を知る手がかりはないが、直江家に生まれた娘としての誇りは持っていたであろうし、主君の片腕として多忙な日々を送る兼続を支える器量を兼ね備えた女性であっただろう。

お船の方と兼続との間には一男二女があった。しかしいずれも早世している。

長女於松は慶長9年(1604)、本多政重と結婚。これによって、政重は兼続の養子となったが、於松は翌年死去する。(慶長11年死亡説もある。)
長女と前後して次女も死亡した。

嫡男平八景明は、文禄3年(1594)の生まれであるが、生来身体が弱かったらしい。
米沢に移ってからであるが、兼続は景明のために五色温泉を開き、大名並みの供をつけてここに湯治させている。
慶長14年(1609)、本多正信の媒酌により、近江膳所城主戸田氏鉄の娘と結婚。
大坂冬の陣の時、景明は結核を患っていたが、父と共に参戦。この時の無理がたたってか、大坂冬の陣の翌年元和元年(1615)、死亡した。

 


■定勝とお船の方■

景勝の嫡男定勝の生母は、定勝出産後、まもなく死亡、景勝の正室菊姫も同じ年に死亡している。
お船の方は、定勝の養育や奥向きのことに深く関与したらしい。

 


■兼続死後■

元和5年(1619)、江戸鱗屋敷で兼続死去。お船の方は、夫の亡骸を菩提寺である徳昌寺に埋葬し、年々の法要を手厚く執り行った。また、高野山金剛峯寺に、宝楼閣瑜祇塔を建立し、その壁に夫兼続と息子平八の肖像画を描かせ、供養したという。

景勝が元和9年(1623)死去すると、そのあとを嫡男定勝が継いだが、定勝の時代、お船の方はさまざまに優遇されたという。定勝はお船の方に対して扶助料三千石を与え、手明組40人の士を従属させた。

『米沢雑事記』に言う、

「山城守相果て候ても、大小の事ども後室へあい計らい候よし。(略)昔、頼朝公御逝去よりして御台所は禅尼とならせ玉へども、天下の事は右大将御在世の如くに…(略)時俗これを尼将軍と申し奉る。直江後室も似たり。」

おそらく、兼続の生前から、お船の方は兼続を支える傍ら、奥向きのことではさまざまに関与していたのであろう。

また、彼女は兼続の意志を継ぎ、『文選』の再刊も果たした。書物を愛する夫の良き理解者でもあったのだろう。

寛永2年(1625)3月から5月にかけて、お船の方は奈良・京都・高野山などの寺社参詣の大旅行を行なう。これも、定勝の後押しがあったからこそなしえたことである。

寛永13年(1636)お船の方が病に倒れると、定勝は自ら見舞いに訪れ、伊勢神宮に大神楽を奉納させ、病気平癒の祈願を行なった。

定勝の祈願も虚しく、翌寛永14年(1637)正月、お船の方は81才の生涯を閉じる。亡骸は徳昌寺に葬られ、高野山に分骨した。(法名宝林院殿月桂貞心大姉)
定勝は高野山に使者を派遣し、常灯料を寄付し、お船の方のために墓石を立てた。高野山清浄心院の墓所には「宝林院殿月桂貞心大姉 米沢直江山城守後室為菩提上杉弾定建之」の碑があるという。

君主が家臣の後室に対してここまで執り行うとは異例のことである。お船の方は定勝に対して子に対する様に接したのであろうし、定勝もまた、彼女を信頼し、その恩に報いようとする気持ちが強かったのであろう。

戦国の世の習い通り、お船の方もまた、政略的な結婚をせざるを得なかった。
普通の戦国女性と違っていたのは、彼女は他家に嫁いだのではなく、自分の生まれた家の存続のために結婚したということだ。だが、最初の夫は不慮の死を遂げ、その死を消化するまもなく兼続と結婚「させられた」。それでも彼女は兼続と一緒で良かったと、共に暮らした日々をいとおしむように瞑目したのだという気がしてならない。

 


 

 

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