本多家系図


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政次    慶長15年(1610)〜寛永4年(1627)

慶長15年、米沢にて生まれる。母は大国実頼の娘で直江兼続の養女・阿虎。
幼名 大徳、長じて志摩守と称す。
慶長16年、父政重とともに加賀に赴く。
寛永3年(1626)長男朝政誕生。翌年伊勢に赴いた帰途、病に罹り、4月20日死亡。享年18。
京都北紫野芳春院に葬る。


朝政    寛永3年(1626)〜明暦2年(1656)

幼名 長吉。長じて孫一、後に半左衛門、五兵衛と称す。
6歳の時、石川光正の養子となり、石川姓を名乗る。
慶安2年(1649)、当時嫡子のなかった叔父政長(叔父とはいえ、朝政より年少)から、朝政の子を養子としたい旨を告げられる。朝政はその話に乗り、養父石川光正に政長の意向を伝え、自分も本姓に戻りたいと告げたが、光正は許さなかった。発奮した朝政は妻子(妻は光正の女・長。子は定政のほかに男1人、女1人いた)を捨て、定政を伴い加賀に帰った。
加賀に戻った朝政は、本姓を名乗ることをはばかり、祖母の出自の樋口姓を名乗った。
明暦2年(1656)9月20日卒す。享年31歳。

『本多系譜』には、朝政は「豪邁」で「孫呉之略」(孫子と呉子の戦術)を好んだ、とある。
祖父政重譲りの豪胆な血がもっとも受け継がれている人物という気がする。

※朝政の子
定政のほかに男子が1人、2歳上の姉(1646年生)がいる。定政が生まれた翌年に、朝政は定政を連れて加賀に行っている。ということは、慶安2年の時点では、すでにもう一人の男子(定政にとっては兄)は亡くなっていたのだろうか。あるいは石川家の継嗣として残してきたものだろうか。


定政   慶安元年(1648)〜延宝3年(1675)

 朝政の子。慶安元年、京都で生まれる。母は石川光正の女、長。
慶安2年、父朝政に伴われ、加賀に来て、政長に養われる。
万治2年(1659)、政長の意によって加賀藩士・青地等定の養子となり、青地氏を継ぐ。1000石。
延宝3年5月19日卒す。28歳。

『本多系譜』に定政の人となりは「温厚、和ニシテ威有り」とある。性格は穏やかで、協調性はあるが、どこか人をひきつけるものを持っていた、ということだろう。また、学問を好んで、交友からその篤志を称賛されたともある。


政久   ?〜寛永9年(1632)

寛永9年(1632)6月、叔父忠純の跡を継ぎ、大隈守を拝す。が、程なく死亡。

嫡子はこの年3歳。まだ幼児であったが、本多正信の勲労により、忠純の家を継がせるが、翌寛永10年死亡。大隈守家は断絶する。


政朝   生没年不詳

帯刀と称する。
寛永10年(1633)幕府に仕え、5000石を賜る。
妻は三浦志摩守政次の女。46歳で死亡。


方政   生没年不詳

政朝嫡子。八郎と称す。4500石。24歳で死亡。


政法   寛永18年(1641)〜享保2年(1717)

政朝二男。幼名菊千代。長じて弥兵衛と称する。
政朝没後、采地500石を賜る。兄方政没後、方政に子がなかったので、兄の采地4500石も領有する。
享保2年(1717)2月9日死亡。67歳。


政勝   生没年不詳

刑部と称す。母は戸田家侍女。
はじめ加賀藩に仕えていたが、後に大垣に行き、戸田を称する。

政重は若いころ、徳川秀忠の乳母子である岡部庄八を殺害したが、岡部殺害に際して戸田帯刀為春(大垣藩主戸田氏鉄の弟)が政重に合力した。
戸田と政重はある意味実懇の仲といってよく、その関係で戸田家の侍女と知り合い政勝が生まれたと思われる。
系図の順番は『本多系図』の順番によったが、政勝は米沢に赴く前に生まれた子(順番からいうと第1子)である可能性もある。

なお、『本多系譜』には政勝の名はみえない。


政長   寛永8年(1631)〜宝永5年(1708)

母は西洞院時直の女。加賀本多家の第2代。政長の系統が、代々加賀藩の年寄職を継いで行く。

幼名は長松。長じて左馬助と称する。
正保3年(1646)、11月2日、加賀藩第3代藩主前田利常の女春姫と婚姻。
正保4年(1647)、家督を継ぎ、安房守を称する。5万石。
元禄4年(1691)12月16日、従五位下安房守を叙爵。
元禄14年(1701)、隠居し、素立軒と称す。
宝永五年(1708)8月9日卒す。78歳。金沢大乗寺に葬る。


参考文献:『本多系譜』(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)
       『本多系図』(同館所蔵)

     『加能郷土辞彙』

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