米沢紀行〜歴史の手に引かれて

by TOMIY27さま


1月5日 宮坂考古館・上杉神社
旅の始まりは岐阜の大垣から。きっと、直江兼続も駆け付けたかったであろう、関ヶ原合戦で西軍の本陣となった場所、旅の始まりに相応しい。 今回の旅は青春18きっぷで、大阪から北海道を目指すことを目的としている。同じ方向にある、米沢に行くことは必然だった。今回の旅の最終目的地は北海道・函館。休暇の日程も限られており、その日の内に、できるだけ北に行っておく必要がある。その為、米沢に滞在できる時間は2時間半と限られていた。
大垣から快速夜行列車「ムーンライトながら」に乗って東京へ。そこから北上して、黒磯、郡山、福山から東北新幹線に乗って、米沢に着いたのは出発した翌日の昼過ぎだった。

上杉の城下町、米沢。感慨に浸る間もなく、米沢駅でもらった観光地図を頼りにまずはJR米沢駅の近くの宮坂考古館へ。駅からは歩いて10分かからないくらいだったと思う。民家風の建物が意外だった。考古館本館。入ってすぐの展示室に並ぶ甲冑達、前田慶次郎、上杉景勝、上杉謙信、そして、直江兼続。大阪城博物館で行われた、「五大老展」における直筆の書状を見たことはあるにせよ、直江兼続を知ってから4年目にして甲冑を通して、ようやく、その面影に会えた気がした。その気持ちは前田慶次郎、上杉景勝、上杉謙信、にしても同じだ。上杉謙信に至っては15年来になる。およそ、戦国史に憧れる人間なら、一度は訪れてみたい場所ではないだろうか?それにしても、これだけのコレクションを個人で集めた、初代の館長には頭が下がる思いだ。
一度米沢駅に戻って、上杉神社に向かうバスを待つ。メインストリートに面するロータリー。まず目に飛び込んできたのは、駅の向かいの「上杉そば」の文字。足元に目を向けてみると、上杉まつり等の米沢の年中行事をあしらったタイル。存在すら珍しくなってきつつある、電話ボックスには「上杉の城下町・米沢」の文字が。「米沢にいる」という実感が混み上がってきた。



駅から循環バスに乗って、上杉神社へ。直江兼続や上杉鷹山らを祭神とする松岬神社で手を合わせ、いよいよ本社へ。濠の側に翻る「毘」と「乱れ龍」の旗を見ると、気分が盛り上がってくる。上杉神社は旧・米沢城。根雪に覆われているせいか、神社への橋が架かっている濠の他に、「城」を感じさせるものはない。




























入ってすぐの案内板には米沢関連の偉人として、直江兼続と伊達政宗の紹介がされていた。伊達家が仙台に移ったこともあってか、伊達政宗を偲ばせるものは、「生誕の地」と記された案内があるのみだった。そこから少し離れて、上杉家中興の祖・上杉鷹山の銅像がある。それより手前の右手の広場には上杉謙信の銅像を見つけた。
ともあれ、まずは社に。2007年の初詣は上杉謙信公に御参りしたことになった。参詣を終えて、謙信、鷹山公の像を撮影。脇の丘に登ると、大きな石碑と柵に囲まれている石碑が見える。大きな方は幕末の北越戦争を戦った、上杉家の将士の供養碑だった。柵で囲まれた石碑は、かつて米沢城で上杉謙信の棺が設置された本堂の跡を示すものだった。碑のすぐ後ろが崖になっており、そのまま米沢の街と雪が積もった遠い山並みを眺めることができる。遠く越後を離れ、ここで眠っていた謙信は末裔達をどんな気持ちで眺めていたのだろう?

ここで、残念ながら出発のために、米沢駅に移動する時間になった。山形に向かう車窓を見ながら、次は米沢を目標に旅行を計画してゆっくりと観光しようと心に決めた。しかし、「次」は予想をはるかに超えて早く訪れることになる。



1月8日 上杉家廟所・春日林泉寺


 5日は最終的に秋田の大館に宿泊した私は、6日に青森からフェリーで函館に着いた。悪天候の為、ほぼ半日の観光を経て、7日の早朝に帰途に着いた。函館から木古内まで18きっぷで移動。この木古内から、青森の蟹田までは、青函トンネルを走る鈍行列車がない為、特例として、特急列車を使用することができる。ただし、蟹田以降の駅まで乗車すると、木古内からの特急料金・運賃を支払わなければならない。 当初の予定では、7日のうちに新潟に着き、そこから快速夜行列車「ムーンライトえちご」で、8日の朝には新宿に着き、東海道を下って、あわよくば、小田原や、駿・三・遠、関ヶ原近辺のどこかを観光して、その日のうちに大阪に帰る、そう考えていた。
 予定が狂ったのは青森を出たあたりだった。折しも、北海道・東北地方に低気圧が襲ってきており、前日の函館も雨・雪の「台風」に近い状態だった。「ひょっとしたら帰れないかもしれない」という危惧は不幸にして的中する。青森を出て何駅も経たないうちに、電車は大風によって運行を見合わせてしまった。運が悪かったのは、電車が止まったのが次の駅との中間点だったことだ。駅に着いていたなら、タクシーやバスでの代行運転で次の駅に行くことができる。今回のように線路の上では、ただ待つことしかできない。電車が止まっていたのは4時間くらいだったろうか、新潟から乗るはずの「ムーンライトえちご」も運行中止になり、5日に宿泊した大館からJRが代走で出してくれたタクシーで、いくつかの駅を乗り継ぎ、山形の新庄駅近くのファミリーレストランで夜を明かすことになった。

 明けて1月8日。新庄から、山形を経て再び米沢に向かう。しかし、昼前くらいに、山形と米沢の中間辺りで、倒木によって、再び電車が止まってしまった。車中には私と同じく、昨晩野宿に近い状態の人間も多く、車掌さんまで抗議が殺到する。落ち着いているのは地元の人間ぐらいだった。今回は駅に着いていたのが幸いして、米沢までタクシーが出ることになった。

 車中で車掌さんや地元の人から忠告を受けていた、「米沢でも2〜3時間、乗り継ぎを待つ事になる、天候が悪化する可能性もあるし、それよりは山形に戻って、天候が安定している仙台に抜けて東京へ帰るべき」と。 組みなおした予定では、8日のうちに東京に着き、そこから夜行バスで大阪に帰るつもりだった。多少、天気が悪化しても夜までに東京に着けばいい。米沢からなら充分に可能である。そう考えた私はJRが用意した米沢までのタクシーに乗った。

 米沢駅行く行程と、それほど変わらないというわけで、タクシーの運転手には、上杉家の廟所がある御廟までを頼んだ。運転手は話好きらしく、米沢に関する色々な話を聞かせてくれた。中でも、忠臣蔵事件時における、逐電した赤穂藩・家老大野九郎兵衛が米沢に潜み、吉良上野介を狙っていたという話だ。大石内蔵助の討ち入りが成功した為、九郎兵衛は米沢で切腹したという。童門冬二氏の「上杉鷹山」で知識はあったが、実際に地元の人から話を聞くと信憑性が増してくる。米沢と福島をまたぐ峠にその地方の庄屋が立てた石碑があるという。いずれは行ってみたいと思う。
そんな話をしているうちに廟所に到着。タクシーを出ると、若干の吹雪状態。管理事務所に荷物を預け、拝観料を払い、いよいよ参拝。踵まで積もった雪を踏みしめながら、まずは中央奥の上杉謙信の廟に。前方には景勝公からの歴代上杉藩主の廟が並んでいる。ここに上杉謙信の棺があると思うと不思議な気持ちになる。上杉神社でも感じた、面影に巡り会えた、という気持ちより、ようやく上杉謙信に逢えた、という気がした。景勝公や鷹山公、吉良上野介の息子である綱憲公の廟を中心にお参りする。積もった雪のせいか、思ったよりも息が上がる。



管理事務所では管理人さんと会話する。私が福岡の出身だと話すと、「鷹山公の御実家が黒田家の出身だ」と喜んでくれた。「今年は大河でお客さんが多くなるでしょう」と話してみると、「配役がねえ、NHKに抗議しますよ」と笑って話してくれた。Gackt謙信が認められるのには、ある程度時間がかかるようだ。芳名帳があったので名前を書かせてもらう。なんと2007年は私が最初!名前が残っているうちに、またここに来たいと思う。

管理事務所で次の春日林泉寺の場所を聞いて辞去する。廟を出た時には、吹雪が酷くなっていた。昨日の記憶が頭を過ぎりつつも、循環バスで林泉寺に移動する。
 林泉寺に着いたときには、吹雪も幾分か落ち着いていて、ゆっくりとお墓参りができるくらいになっていた。林泉寺の本堂に荷物を預けて、いよいよ拝観。実は林泉寺に埋葬されているのは上杉一族と直江兼続夫妻だけだと思っていた。それだけに、忠臣蔵事件で吉良邸の警備に当たり、戦死した新貝弥七郎や杉原親憲をはじめとする、上杉家の重臣達の墓があってビックリした。
そしてもう一人、武田信玄の六男、武田信清の墓には感動した。武田家滅亡後、一時高野山に身を寄せ、後に景勝の正室で姉にあたる菊姫の縁を頼って米沢に来たという。上杉家では高家として遇され、子孫も代々米沢に住んだという。余談ながら、現在武田家の正嫡として認められているのは、信清の家系ではなく、信玄の次男で、信濃の名家・海野家を継承した信親(龍宝)の家系であるという。「トリビアの泉」で上杉知彦氏と対決した武田邦信氏はこちらの家系にあたる。

謙信は信玄を嫌っていたというが、菊姫が景勝の正室であることを差し引いたとしても、武田家と上杉家には、互いに何かしらの敬意を持っていたと思う。信清の墓はその証に思えてならない。

そして、この旅のハイライトである直江兼続夫妻の墓へ。側には米沢市が人物紹介の看板を置いている。上杉家の廟とは違って、年代こそ感じられるが、一見は普通の墓石。こんなものかと思う気持ちと、ここまで辿り着いたという達成感が入り混じった不思議な気持ちだった。一つだけ言えるのは、ようやく兼続本人に会えたという事だ。
 
 風が吹く中、しばらく、墓前で手を合わせて、荷物を預けた林泉寺の本堂に向かう。「よかったら、少し暖まっていきませんか?」という林泉寺のおばあちゃんの言葉に甘えて、本堂に上がらせてもらう。玄関を上がってすぐの、広間には都会ではめったに見られない、囲炉裏があった。お茶と茶菓子、「正月に煮た分の最後なんですよ」とゴボウの煮付けを美味しく頂く。茶飲み話で、私の「兼続歴」を語った。拙い話し方だったと思うが、その一つ一つをうんうんと頷いて聴いてくれて嬉しかった。途中、何気なく「(直江兼続を)大河ドラマで見たいですね」と言ってみた。「山本勘助さんがああいう形で(大河ドラマに)なりましたからね」と応えてくれた。直江兼続を知ってから「春雁抄」や歴史好きの友人達、多くの人達が「直江兼続を大河ドラマに!」と語っていた。しかし、何より、それは米沢の人達の最もな夢なのかもしれない。「春雁抄」の人達や、上杉家廟所の管理人さん、林泉寺のおばあちゃん、直江兼続の大河ドラマ化は、考えている以上に多くの人達の夢なのだと知った旅でもあった。

 林泉寺を出る時、おばあちゃんが「次は上杉まつりの季節にいらっしゃい」と声をかけてくれた。確かに、この季節は、ゆっくりと外を出歩くには向いてない、しかし、北国の冬を知ることで、この厳しい季節を生き抜いた、景勝の兼続の生き様を一つ知った気がした。林泉寺の最後に直江夫妻の墓を写真に撮った。次は春に、時間と余裕を持って来ようと思った。

 この度の間、ずっとGLAYの「Winter,again」を聴いていた。初めて聴いた時から、冒頭の「無口な群衆(ひと)、息は白く、歴史の深い手に引かれて」のフレーズに惹かれ続けている。この曲が発表されて8年近い時間が経つが、多分、何百回も聴いてきても、これから聴いていく中で、「歴史の深い手に引かれて」のフレーズは何回聴いても色褪せないと思う。 
本来なら、函館だけを目標とした旅の中で、米沢まで私の手を引いてくれたのは直江兼続だった。そして「Winter,again」が伝えてくれるところの「人の温もり」に触れた気がする。

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