直江家と樋口家

 

直江兼続(1560〜1619)

永禄3(1560)年誕生。誕生月日、場所は不明。幼名与六。加冠して兼続、晩年重光と称する。
山城守。天正16(1588)年従五位下。
元和5(1619)年、江戸鱗屋敷で死去。60才。

法名「英貔院殿達三全智居士」。墓所は山形県米沢市林泉寺。

直江氏は兼続に継嗣がなかったため、彼の代で断絶した。




《父》

樋口惣右衛門兼豊

上田庄六日市坂戸城(新潟県南魚沼郡六日町)主長尾越前守政景の家臣。
永禄7(1564)政景溺死後、上杉謙信に仕え、謙信の死後、上杉景勝に仕える。
もとは薪炭用人であったという。
天正6(1578)年の御館の乱での戦功により直峰城(新潟県東頸城郡安塚町)主に命じられる。
天正16(1588)年伊予守。
慶長71602)年死去。法名「台代翁道高庵」。




《母》

名は不詳

与板城(新潟県三島郡与板町)主直江景綱の妹とも、泉重蔵(信州の豪族で上杉氏の重臣だった高梨氏に仕え、後に飯山城主となった)の娘とも。
渡邉三省氏は、直江の妹と兼豊とでは身分が違いすぎるとし、泉氏の娘ではないかと考証しておられる。





《樋口氏の祖》

樋口次郎兼光(?〜1184)

木曽義仲四天王の一人。
父は中原兼遠。
譲与された土地の名にちなみ、「樋口」姓を名乗る。
母が義仲の乳母であったため、義仲とは乳兄弟にあたる。義仲の愛妾巴御前は、兼光の姉(妹?)。
同じく四天王の一人で、義仲に最後まで付き従い、最期を共にした今井四郎兼平は、兼光の弟。
義仲が討たれた後、主の死を知った兼光は、敵軍に投降する。敵軍の中に、兼光の縁者がおり、その者が助命嘆願するが、懇願虚しく斬罪に処せられた。
『平家物語』巻九に「樋口の斬られの事」として、その最期に至る様子が描かれている。

兼光より数えて13代目の兼定のとき、越後に来住し、上田坂戸城主長尾氏に仕え家臣となった。




《直江氏》

藤原不比等の子で京家の祖藤原麻呂の末流といわれている。
新潟県頸城郡直江庄を賜って「直江」姓を名乗ったという。


直江景綱(?〜1577 )

幼名神五郎。はじめ実綱と称する。
与板城を本拠地に、長尾為景、長尾晴景、上杉謙信に仕える。70余才で死亡したといわれる。



直江信綱( ? 〜1581 )

上野国総社(群馬県前橋市)の長尾顕景の子。
直江景綱の娘おせんの方の婿となり、直江家を継ぐ。
天正9年(1581)、御館の乱の論功行賞に不満をもつ毛利秀広が、儒者山崎秀仙(上杉景勝の側近)を惨殺した。そのとき、秀仙と共に談じていた信綱が秀広に斬りかかったが、反対に殺害されてしまった。



直江氏系図

樋口氏系図

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