≪北陸編≫魚津(富山県魚津市) 
  

■魚津城址■

 小津城ともいう。もと新川郡守護代椎名氏の居館だった。椎名慶胤が永正17年、長尾為景に討たれた後は、長尾方の居城となった。その後、上杉謙信が能登・加賀方面進出した際の拠点となった。

 謙信の死後、天正10年(1582)、越中進出をはかる織田勢に攻めらた。魚津城に籠城していた守将は上杉景勝に救援を求め、景勝もこれに応じたが、信濃方面、越後方面の緊迫により景勝は撤退を余儀なくされた。
 織田軍の包囲は80余日におよび、食糧も尽き、救援も得られないまま、同年6月3日、守将たちはことごとく玉砕して果てた。

 魚津城落城の前日、織田信長は本能寺で家臣明智光秀に討たれている。
この報を受けて、織田軍は撤退、景勝は魚津城を奪回した。

 現在、この城跡は小学校になっており、城跡を物語るような遺構は残っていない。
 ここを訪れたとき、かつてこの地で壮烈な戦いが繰り広げられたことなど、まさに夢のあとのようで、子供達の歓声だけが照りつける日差しの下で響いていた。





■天神山城跡■

 標高163メートルの天神山の山頂に築かれた山城。上杉方の越中における重要な中継地点のひとつであった。

 天正10年(1582)、織田軍に包囲された魚津城の救援に向かった景勝が、ここ天神山城に陣を敷いた。
 対陣すること数日、信濃方面からの織田勢の越後侵攻の報を受け、景勝は急遽軍を返さざるを得なくなった。


天神山城跡

中央のこんもりとした緑が天神山城跡です



山頂に立つ碑
この地に景勝が立ったかと思うとちょっと鳥肌
が立ちます(^_^;)
天神山山頂より魚津市街地を臨む
魚津城はもう少し左手の方。ちょうど木に邪魔をされて隠れてしまっています。
直線距離にして約3キロ。おそらくは手をとるように魚津城の有様がわかったのではないかと思われます。景勝の心情はいかばかりだったでしょうか・・・


土塁の跡


おまけです


 天神山の中腹にある、前田家の家臣青山吉次とその子(養子)長正のお墓。
 青山吉次は前田利家(後、利長に仕える)の家臣で、加賀藩人持組青山家(7650石)の祖。天正末年、魚津城主となり、1万7千石を受けた。慶長3年従五位下佐渡守に任ぜられる。
 養子の長正も魚津城城代として魚津の町の隆盛に貢献した。
 二人の墓はもとは別の地にあったが、天神山に移設されている。向かって右が吉次の、左が長正の墓である。


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