≪北陸編≫魚津(富山県魚津市)
■魚津城址■ | ||||
小津城ともいう。もと新川郡守護代椎名氏の居館だった。椎名慶胤が永正17年、長尾為景に討たれた後は、長尾方の居城となった。その後、上杉謙信が能登・加賀方面進出した際の拠点となった。 謙信の死後、天正10年(1582)、越中進出をはかる織田勢に攻めらた。魚津城に籠城していた守将は上杉景勝に救援を求め、景勝もこれに応じたが、信濃方面、越後方面の緊迫により景勝は撤退を余儀なくされた。 魚津城落城の前日、織田信長は本能寺で家臣明智光秀に討たれている。 現在、この城跡は小学校になっており、城跡を物語るような遺構は残っていない。 |
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■天神山城跡■ | ||||
標高163メートルの天神山の山頂に築かれた山城。上杉方の越中における重要な中継地点のひとつであった。 天正10年(1582)、織田軍に包囲された魚津城の救援に向かった景勝が、ここ天神山城に陣を敷いた。 対陣すること数日、信濃方面からの織田勢の越後侵攻の報を受け、景勝は急遽軍を返さざるを得なくなった。
土塁の跡 |
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おまけです 天神山の中腹にある、前田家の家臣青山吉次とその子(養子)長正のお墓。 青山吉次は前田利家(後、利長に仕える)の家臣で、加賀藩人持組青山家(7650石)の祖。天正末年、魚津城主となり、1万7千石を受けた。慶長3年従五位下佐渡守に任ぜられる。 養子の長正も魚津城城代として魚津の町の隆盛に貢献した。 二人の墓はもとは別の地にあったが、天神山に移設されている。向かって右が吉次の、左が長正の墓である。 |
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