《北陸編》金沢(石川県金沢市)




金沢城石川門


■金沢城■

金沢城の前身は、天文15年(1546)一向宗の拠点として築かれた金沢御堂(金沢御坊)である。
天正8年(1580)柴田勝家が金沢御堂を攻略したことにより佐久間盛政が入城、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると、能登七尾に配されていた前田利家が金沢城へ入った。

金沢城の普請は佐久間盛政、前田利家へと引き継がれ、慶長4年(1599)徳川家康の動きを懸念した利家の子の利長が、高山右近に命じて内総構堀を作らせた。

江戸時代には何度か火災にあったが、江戸期を通じて前田氏の居城としての役割を負い、明治に至った。

現在藩政期の建物として石川門(国の重要文化財)、三十間長屋(同)などが残る。
平成13年には安政年間の頃の絵図をもとに、菱櫓、橋爪門続櫓が復元され、「金沢城公園」として整備された。現在も他の建物群の復元に向けての調査、周辺部の緑地化など整備が進められている。

また、金沢城は「石垣の博物館」とも言われ、石垣の積み方の変遷を知ることが出来る。
石川門を入った左手の石垣の一部は慶長期に積まれた石垣であるという。

なお、「金沢城」の名称であるが、多くのガイドブックなどには佐久間盛政が「尾山城」とし、前田利家が「金沢」と改称した、というようにあるものが多いが、どうやらこれはまちがいのようである。
「尾山」という名称は、天正11年(1583)の前田利家の文書にあるのが初見で、もともと「金沢」と言っていた(佐久間のときも「金沢城」)のを、利家が「尾山」に改称したが定着しなかったというのが真相らしい。
下に記した上杉家の『天正十四年上洛日帳』には「小山」と出てくる。



■兼続と金沢■

天正14年(1586)夏、上杉景勝は初めての上洛を果たす。このとき兼続も同行した。
5月16日付で、秀吉の側近である増田長盛、石田三成、木村清久の3名の連署状で、関東の情勢が落ち着く前に上洛したほうが良いとの勧告があった。景勝一行は同月20日には越後府内を出立しているので、この連署状が到来したときにはすでに上洛の途上にあったのかもしれない。

このときの上洛のことは、『天正十四年上洛日帳』に詳しい。

越後を発って10日後の28日、一行は倶利伽羅峠を越える。ここを越えたあたりであろうか、前田利家の兄である前田安勝を始めとする加賀・能登の侍が「不残一人」景勝一行を迎えたという。
また、石田三成も森本(現金沢市森本)近辺まで出迎え、互いに馬から下りて挨拶を交わし、前田利家もまた同所まで迎えに出、金沢城に案内した。

加賀・能登の侍が一人残らず出迎えたというのは多少の誇張があろうが、秀吉股肱の三成も迎えに出るなど、景勝を丁重にもてなすようにとの指示が、秀吉からあったのであろうことは想像にかたくない。

28日には金沢に宿泊、翌29日、金沢城にて歓待を受け、利家の次男で、当時9歳だった又若丸(利政)が能の太夫を務めたという。
29日も金沢に宿泊、5月晦日に金沢を出発し、京に向かった。

また、前田慶次や本多政重など、兼続を取り巻く人々の中には加賀ゆかりの人々も少なからず存在する。

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