《北陸編》七尾(石川県七尾市)



■七尾城址


展望台から本丸跡を臨む


七尾城は石動山系の北端標高300メートルに位置する能登守護畠山氏の居城でした。築城年代は明らかではありません。二の丸、三の丸ほか、遊佐・温井らの家臣の屋敷などが山全体を覆うように配置され、「山上都市」の趣を呈しています。

天正4年(1576)11月、謙信は能登侵攻をはかり、七尾城を囲みますが、落とすことかなわず、翌5年9月、再び七尾城を攻めました。このとき畠山氏の重臣であった遊佐続光・温井景隆らが上杉方に内応、内部で敵対していた長続連・綱連を殺害し、七尾城は落城しました。

七尾城を攻略した勢いを駆って、加賀に攻め入っていた織田軍を手取川で撃退します。

ところが半年後、天正6年3月13日、謙信は死去。七尾城は織田方の手におち、天正9年(1581)、信長から能登一国を与えられた前田利家が七尾城に入りました。

七尾城攻略戦において、兼続が参戦していたかどうかは不明。当時18歳だった兼続が、謙信の采配を身近で見ていたとしても、不思議ではありません。


≪本丸跡の石垣≫

400年以上たった今でも、とてもよい状態で石垣などが残されています。


≪二の丸跡の石垣


≪本丸跡から七尾湾を臨む。≫


「聞きしに及び候より名地、賀(加賀)・越(越中)・能(能登)の金目の地形と云い、要害山海相応し、海頬(うみづら)嶋々の躰までも、絵像に写し難き景勝までに候」と、謙信は本丸に登ったときの感想を述べています。


■宝幢寺(ほうどうじ)
山の寺寺院群の中のひとつの寺院。
謙信の七尾城攻めのとき、七尾方に降伏した上杉方の諸将をこの寺に収容し、後日この寺で処刑したということです。

山の寺寺院群は、小丸山城を築城した前田利家が、真宗以外の寺院29ヶ寺を城の西北に集め、城の防衛としたものです。(現在は16の寺が残っています。)

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