■妙心寺(京都市右京区花園)■
全国に約3500の末寺を持つ臨済宗妙心寺派の大本山である。七堂伽藍を中心に40余の塔頭(小寺院)が並び、仏像、絵画、障壁画、庭園など、たくさんの文化財を所蔵している。 中でも法堂の天井に描かれた狩野探幽の筆になる「雲龍図」は、「八方睨みの龍」の異名の通り、見る位置によって昇天しているように見えたり、天から降りてくるように見えたりと、まるで本物の龍がそこにいるかのような感覚を覚え、圧巻である。 もともとこの地は花園天皇(1297〜1348)の離宮であったが、禅宗に深く帰依した天皇が関山慧玄を招いて禅刹としたのが始まりである。(建武4年(1337)) |
妙心寺南総門 兼続もこの門から中に入ったのだろうか・・・ |
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【兼続と妙心寺】 | ||
兼続と妙心寺のかかわりは天正16年(1588)、景勝の2度目の上洛のときに始まる。 この年、兼続は5月から8月まで京に滞在した。約4ヶ月の滞在中、兼続は当時一流の学者や文化人と交流を持ったが、中でも妙心寺の南化玄興(天文7(1538)〜慶長9(1604))のもとに足繁く通ったという。 兼続は南化から『古文真宝抄』(『古文真宝』の注釈書。『古文真宝』は中国漢から宋の時代までの韻文・散文の名文を集めたもの)を借り受け、一ヶ月足らずでそれを書写した。 その後も上洛のたびに兼続は妙心寺の南化のもとに通い、交誼を深め、南化から書物を借り受けたり、さまざまな教えを受けたりし、勉学に励んだという。南化は、そんな兼続の勤勉を賞賛している。また、南化には、主君・景勝や、前田慶次も師事している。 |
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【妙心寺の堂塔と塔頭】 | ||
●明智風呂 | ||
南総門を入って2、30メートルほど進むと三門があるが、三門の東側に「浴室」がある。「明智風呂」とも言われるこの浴室は、名前のとおり、明智光秀の供養のために建てられたものだ。
浴室に入って真っ先に目に飛び込んでくるのは、正面の棚に置かれた10余りの位牌である。これらはこの浴室を作るときに尽力した人々の位牌だという。 光秀の供養のために、なぜ浴室?と不思議に思ったが、そのいわれは次のようなものである。 天正10年(1582)、本能寺の変に先だって、光秀は妙心寺の知己を頼り、「もし自分に何かあったらこれで菩提を弔ってほしい。」と言っていくらかのお金を渡して去った。山崎の合戦で光秀の訃報を受けると、その菩提を弔うために浴室を建てた。浴室は身体を清めるところである。身体を清めることは心を清めることでもあり、そうすることで、光秀の供養となろうと考えたからだという。 浴槽は蒸風呂形式で、今で言うサウナである。 |
明智風呂の外観
明智風呂内部 |
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●寿聖院 | ||
慶長4年(1599)、石田三成が父・正継の供養のために創建した。三成の子重家が、ここの第三世を勤めた。
非公開なので、門から中をのぞくだけしかできなかったが、正面の桜(?)の花が見事だった。 |
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●隣華院 | ||
景勝の正室菊姫は慶長9年(1604)、京で死去し、はじめ、この隣華院に埋葬された。菊姫の墓は、現在は米沢の林泉寺にあり、遺骨もそちらに移されているが、隣華院には墓石だけは今も残されているらしい。
こちらも非公開なので、門からのぞくだけ。 |
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●桂春院 | ||
慶長3年(1598)、織田信忠(信長の長男)の次男・津田秀則が創建。
こちらは一般に公開されている。 「真浄の庭」「思惟の庭」「真如の庭」「侘の庭」と命名された庭が美しい。 |
桂春院の茶室「既白庵(きはくあん)」 | |
●退蔵院 | ||
三門の西側に位置する退蔵院も、一般公開されている。
狩野元信の築いた枯山水の庭園、如拙作の瓢鮎図(ひょうねんず)などを有する。 写真は余香苑という平安朝を彷彿させる庭園であるが、この庭園の中に「水琴窟」という「つくばい」がある。「つくばい」の下深くに底を穿った甕を伏せおき、水が甕に反響して澄んだ琴のような音色を立てる。耳を澄まさないと聞こえない、かすかな音であるが、水の奏でる透明な音色に耳を傾け愛でた古人の風雅を感じ取ることができる。 |
退蔵院庭園(余香苑) |
■伏見・景勝町■
かつて伏見の上杉屋敷があった付近は「景勝町」として、町名にその名が残る。(ただし、電信柱に記された表記は「影勝」であった。)現在は住宅地になっており、このあたり一帯に大名屋敷が並んでいたことなど思うべくもない。
滔々と流れる水面は、かつて壮大な甍を映し出していたのだろうか。
新景勝橋より景勝町を臨む
隣接して前田屋敷があったらしい
かかっている橋が「景勝橋」
景勝橋に刻まれた文字
写真撮影:又左衛門
2002.4月
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