《米沢編》 旅日記其の2

*上杉家関係史跡*     マークは特に兼続ゆかりの史跡

■上杉家御廟所(米沢市御廟)
御廟入り口
「毘」と「懸り乱れ龍」の旗が風をうけてはためく
杉木立の静謐の中にそれはあった。真夏の太陽の照りつける中にあって、そこだけ暑さを忘れさせてくれるような空間。
「毘」と「懸り乱れ龍」の旗が木立を渡る涼やかな風にはためいて…

参道の正面奥に、米沢上杉家初代謙信の眠る御廟がある。天正6年(1578)3月13日、越後春日山城で死去した謙信は、甲冑を身につけ、在りし日さながらの姿のままで甕棺に納められ、城中不識庵に埋葬されたという。その後、2代景勝の移封に伴い、会津、そして米沢の地に移された。
米沢に移されてからは、城内本丸に祠を建てて祀られていたというが、明治になって上杉神社が創建されたのち、現在の場所に移された。 

謙信の廟の左に景勝、右に3代定勝の廟を配し、12代斉定までの歴代藩主の廟が並ぶ様は圧巻である。
廟は、年代によって造りが異なるが、総じて大きな装飾は何も施されておらず、風雪に耐えた木造建築の威風堂々たる様は、上杉家の質実剛健な家風を今に伝えている。

参道の入り口の受付で販売していた「上杉家系図」---「ここでしか販売していません」といううたい文句に引かれ、即購入いたしました。(^^;)

向かって左側より見た御廟
謙信公を祀った御廟



■松が岬公園(米沢城址)(米沢市丸の内)
暦仁元年(1238)の築城と伝えられるから、城そのものの歴史は古い。ここは、かつては伊達氏の居城でもあったところだ。戦国の世にその名を轟かせた伊達政宗は、この城で生まれている。園内には、「政宗生誕之地」の標柱も立っている。政宗は、米沢城が手狭であるとして、城の西方の舘山の地に本城を移すべく築城を始めたが、岩出山に移封となり、中断されてしまった。
この城の遺蹟が、市内舘山地内に残っているらしいが、そちらは割愛させて頂いた。

天正19年(1591)より慶長3年(1598)まで、米沢城は蒲生氏が支配し、慶長3年上杉氏の会津移封に伴い、米沢30万石は兼続の領するところとなった。
関ヶ原合戦での西軍の敗北により、その罪を問われた上杉家は会津を没収され、米沢に移封となる。以来江戸時代260年余にわたり、米沢城は上杉氏の居城であった。












「伊達政宗生誕之地」標柱

上杉謙信像

<謙信祠堂跡>


公園の正面の堀を渡った左手の小高い丘の上に、謙信の祠堂跡の遺蹟が残る。
慶長6年(1601)、景勝の米沢移封に伴い、越後、会津からこの地に謙信の遺骸が移された。慶長17年(1612)ここに祠堂を新築し、謙信の遺骸はここに安置され、懇ろに供養された。
明治になって、上杉神社が創建され、謙信の遺骸は歴代藩主の眠る御廟に移され、現在に至っている。神聖な御堂のあった場所として、遺骸の安置されていた場所は柵が巡らされ、記念碑が立っている。
謙信の遺骸を本丸に安置する事で、歴代の藩主たちの心の拠り所となっていたのだろう。そして遺骸が移された今も、厳重に柵を巡らせて、そこは決して冒してはならない神聖な場所として、異質な空間をつくり出している。

 

<上杉神社稽照殿>

上杉神社に併設する宝物殿。
ここには謙信をはじめとする上杉家代々に伝わるお宝が展示されているのだが、今回の旅の中でもっとも「会いたかったもの(?)」が、この宝物殿の中にあるのだ。

入り口を入って左手に、「それ」は厳かに在った。

直江兼続召料、「愛」の前立ての甲冑---

正式な名称を「薄浅葱糸威最上胴具足」というのだそうだ。
正式名はこの際どうでもいい。とにかく、この具足の前に立ったとき、全身総毛立った。400年の時を隔てて自分の眼前に、あの兼続が身につけていた甲冑があるという事の奇跡…もちろん、触れる事は叶わないが、視覚を通して全神経がその甲冑を捕らえた。
前立てに冠された「愛」の字は、軍神である愛宕権現あるいは愛染明王の「愛」の字を取ったものと言われている。あるいは兼続の武将としての信条的な「愛民の心」を表しているとも。いずれにしても、軍神さながらの兼続が、「愛」の文字を頂いて馬上にある様を想像すると、なんだかぞくぞくする。

兼続の召料のほかにも、謙信や景勝が所用していたと伝えられる甲冑も何点か展示されている。中でも、日輪をかたどった金箔押しの表面に「摩利支尊天」「日天大勝金剛」「毘沙門天王」の文字を彫り込んだ景勝所用と伝えられる甲冑は、とびきり眼を奪われた。

武具の類のほかにも書跡なども展示されており、「晴信あくぎやうのこと」と書かれた謙信の起請文は、文面の内容はよく覚えていないが、武田信玄に対する悪口雑言の数々が書き立てられており、なんだか子供のケンカみたいでちょっと笑ってしまった。

 

<上杉記念館>


上杉氏14代茂憲伯爵邸として建設された建物。「鶴鳴館」とも呼ばれている。
現在は、庭園が開放され、建物の中では、郷土料理が堪能できる。
が、ここは、外から見ただけ。 写真は建物正面。向かって左手に庭園が広がる。



■春日山林泉寺(米沢市林泉寺)
越後春日山から、景勝の移封に伴って移されたもの。上杉家の奥方・子女らの墓所であり、兼続夫妻の墓所もある。

<直江兼続・お船の方の墓所>

米沢に来たからには、何を置いても兼続の墓所に参らねば、と思っていたので、厳かな地に足を踏み入れ、夫妻の墓所を探す。
ひときわ目を引くのが、「万年塔」と呼ばれる墓石である。長方形の墓石にいくつか穴を穿ち、有事の際にはこれを積み上げて防壁とするために、兼続が考案したものである。年代の古い墓の傍らには、必ずこの万年塔があって、一種独特な雰囲気をかもし出している。

夫妻の墓は墓所の一番奥に位置する所にあった。鬱蒼とした木々に囲まれ、じめじめした印象のある通常の墓所とは違い、夫妻の墓は陽光に包まれ、穏やかなたたずまいを見せていた。背後には広々とした田園が広がり、その開放された空間が、生前の兼続の姿を彷彿とさせるようだった。 

<菊姫の墓>

景勝の正室。武田信玄の四女で、御館の乱の折り、武田勝頼と和睦のために人質同然で迎えられた。米沢では「甲州夫人」と称されているという。 

<武田信清の墓>

信玄の六男。武田氏滅亡後、高野山に逃れていたが、「自分が亡き後、天下に頼るべきは謙信のみ」という父信玄の遺言により、姉の菊姫を頼り、上杉家に身を寄せた。上杉家では、高家衆筆頭として優遇されたという。




■東源寺(米沢市中央)■
兼続の菩提寺である。兼続の菩提寺に関しては、紆余曲折を経て、最終的にこの東源寺に落ち着いた。(「兼続の軌跡」其の弍参照)

閑寂な住宅街の一角に位置する、ごく普通のお寺である。
寺の人に案内を乞い、兼続の位牌を拝ませて頂く。
本堂に隣接した小部屋に仏壇があり、そこに兼続、お船の方、長男景明の位牌が安置されていた。兼続の位牌は90センチほど。結構大きい。「英貔院殿達三全智居士」の法名も、はっきり読み取ることができた。兼続の位牌をこんな手の届くようなところで拝めることに感動すると同時に、手厚く大切に供養されている様子が感じられて嬉しくなった。



■法泉寺(米沢市城北)■
はじめ「禅林寺」と称した。元和4年(1618)景勝を開基とし、兼続が創建した。学問所として機能することを目指していたらしいが、翌元和5年、兼続が死去し、師として招いていた禅僧九山も京都妙心寺住職の招きに応じて米沢を去ったため、当初の目的は果たされなかった。上杉家4代綱勝が、この地に文殊堂を建立した。

こんもりと繁った樹木に覆われ、暑さを忘れさせてくれるような空間である。木々の静寂に包まれて、兼続の志に思いを馳せる…

法泉寺庭園 「鷹山公詩會之庭園」の碑が建つ 法泉寺内に建つ兼続の詩碑

卓錫神祠霊地隣
講筵平日絶囂塵
禅林寺裏枝々雪
認作洛西花園春

禅林寺が成ったことの喜びを詩にしたもののようである。




■堂森善光寺(米沢市万世町堂森)

前田慶次が住まいした地と伝えられる。

米沢城址から直線距離で約4〜5キロの場所に位置する堂森。「堂森」という地名からして、なんだかゆかしい感じがする。八幡原大橋で羽黒川をわたり、しばらく行くと右手に「山」と呼ぶにはこじんまりした丘が見えてくる。その丘の山裾に沿うような小道を行くと、右手に田園が広がり、山裾にお堂が見えてくる。

「堂森」というくらいだから、昔は一面森が広がっていたのだろうか。
関ヶ原の合戦後、多くの大小名が慶次を招いたにもかかわらず、それらを全て蹴り、「景勝こそ大剛の大将」として慶次は上杉家に仕官したのだった。かぶき者として名を馳せた彼が、晩年をこの地で過ごしたのである。晩年の慶次がどんなふうに過ごしていたのか、詳細は不明である。けれども、風流を愛した彼のこと、春夏秋冬変わりゆく自然の万物を愛でながら、悠々自適に時を送ったのではなかろうか。ここは時間がゆったり流れている、そんな印象を強く受けた。




■上杉憲政の墓(照陽寺)(米沢市城南)

白布温泉への途上の道沿いに、上杉憲政の墓がある照陽寺がある。
上杉憲政は関東管領だったが、北条氏康に攻められ、謙信に助けを求めて越後入りした。謙信は御館を造営して、彼を丁重に扱った。
謙信の死後、御館の乱で景虎に与し、御館落城後、景虎の子道満丸を伴い、和議を乞いに春日山城へ向かう途上斬殺された。

考えてみれば、彼こそ悲劇の人という印象が強い。

こちらのお墓へは立ち寄らず、車の窓から見ただけ。




■宮坂考古館(米沢市東)

個人が収集した武具類、書画などを展示している。
ここにも謙信はじめ、景勝や兼続らの甲冑が展示されている。
ここに展示されている兼続の甲冑は、浅葱色の胴の色が美しい甲冑である。最上陣のおり、着したものという。ここでも「兼続の甲冑」に見惚れてしまった。

更に彼の甲冑の横に前田慶次の所用と伝えられる甲冑が展示されている。
兜こそなんの飾りもない造りだが、まず鎧の朱色にはっとさせられる。そして肩の部分に魚鱗の装飾が施されており、いかにもかぶき者といわれる慶次の召料という気がする。

彼らの甲冑もさることながら、この博物館で眼を引くものといえば、なんといっても鉄砲だろう。とにかく筒の部分が太くて、重量がある。
ここの前館長さんが米沢藩の古式砲術を復活させて今に伝えているそうである。
先に鶴ヶ城で実際の鉄砲を手にとってみたが、ここの鉄砲に比べるとおもちゃみたいであった。
上杉家が米沢に移って以後、兼続は近江国友や泉州堺の鉄砲鍛冶を招いて、その鋳造にあたらせた。その結果産み出された鉄砲、というわけであろう。




■白布温泉・鉄砲鋳造遺蹟(米沢市白布温泉)■
白布温泉は、市内から車で約30〜40分の山間にある。今でこそ温泉地として人々の往来があるところだが、かつては人の入らないような山深い地だったのだろう。ここで兼続は鉄砲を鍛造せしめたのである。
白布温泉にある鉄砲鍛造遺蹟の碑。碑には、「直江城州公鉄砲鋳造遺跡」の文字が刻まれている。

写真撮影:又左衛門

2001.8月


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