山城茶屋・評定所  
            

「春雁」の詩について(2003.9.22〜9.29)


やまもも   Date: 2003/09/22/Mon/20:03:11

よーぜんさん、初めまして、やまももと申します。

 私は作家の宮部みゆきの大ファンで、HP「やまももの部屋・私の宮部みゆき論」を運営している者です。今回、この掲示板に投稿いたしましたのは、直江兼続の詠んだ漢詩「春雁似吾々似雁 洛陽城裏花背帰」についてお尋ねしたいことがあるからです。

宮部みゆきの小説に『夢にも思わない』(中央公論社より1995年5月に出版。後に中公文庫、角川文庫からも出版されています)という題名の小説があります。その小説中で、主人公の緒方雅男が友人の島崎君に「おまえ、カノジョとうまくいってるか?」と訊いたとき、島崎君は「おまえほど、オレはポーッとなってないからな」と応え、さらにその言葉に添えて「洛陽城裏 花に背いて帰る」と言っています。

 島崎君は、とても頭脳優秀で非常に博学な中学生という設定で、だからこの詩句をぱっと使ったのでしょうが、私のような人間には引喩としての意味が全く分かりませんでした。それで、「洛陽城裏 花に背いて帰る」という詩句は、もともとは誰がどんな想いを託して詠んだものか知りたいと思い、そのことを私のホームページに書きましたところ、にこさんという方が掲示板にお返事を寄こされ、その詩句は直江兼続が詠んだものらしいと教えてくださいました。それで、検索エンジンでこの詩句と直江兼続をキーワードにして検索エンジンで調べましたところ、よーぜんさんのホームページにたどり着いたわけです。

 それで、よーぜんさんにお訊きしたいことは、この直江兼続の詩句が紹介されていた書籍の名前、執筆者、出版先、出版年月日のことなんです。もしかしましたら複数冊あるかもしれませんが、できましたら今でも比較的購入しやすい書籍を教えていただけたらありがたいと思います。誠に突然のお願いであり、大変恐縮ですが、どうかよろしくお願いいたします。
よーぜん Date: 2003/09/23/Tue/10:27:58

やまももさん
はじめまして。当サイト管理人のよーぜんです。ようこそお越しくださいました。
宮部みゆきさんの作品を扱ったサイトを運営なさっているとの事。宮部さんの作品は読んだことがないのですが、兼続の漢詩を引用したものがあるとは。今度読んでみたいと思います。これもなにかの縁かもしれませんね。今後ともよろしくお願い申し上げます。

さて、ご質問の件ですが、「直江兼続漢詩集」のような書籍があるわけではなく、私も原文に触れたわけではありません。兼続のことを書いた書物にはたいてい載っていると思いますが。ただ、本当に詩句が載っているという程度のものがほとんどです。参考になるかわかりませんが、サイトの「書棚」のページに掲載してあります書物にはたいてい載っています。
比較的手に入りやすいとしたら、『直江兼続のすべて』( 花ヶ前盛明編 新人物往来社)でしょうか。ただし、やまももさんのお知りになりたい部分はほんの数行(2,3行?)だけだと思いますので、立ち読みするか、図書館等で探されることをお奨めします。(購入はお奨めできません(^_^;)

サイトのトップページにこの詩を掲げていますが、おそらくは七言絶句の詩だったのでしょうが、起句と承句を欠いた句なのです。ひょっとしたら初めから前二句はなかったのかもしれません。にもかかわらず兼続の句としては一番有名な句。私も個人的にこの詩句は好きです。私のへなちょこ解釈がこちらにございますので、よろしければ、ご覧下さい。↓

http://shungansho.fc2web.com/bunjin-kanetugu/kansi.htm

また、この詩は、林泉寺(上越の)に宝物として掛け軸があるそうです。

小説の流れがわからないのでなんともいえないんですが、やまももさんが書いてくださった部分だけで考えてみるに、その島崎君が春雁の詩を引用したのは「花」を女性(=彼女)にたとえていったんではないでしょうか。自分は「花」には背を向けているんだよ、と。ぜんぜん違っていたらごめんなさい。

やまもも    Date: 2003/09/23/Tue/21:40:41

よーぜんさん、こんばんは、やまももです。

 お返事、本当にありがとうございました。文献としましては、『直江兼続漢詩集』のような書籍があるわけではないのですね。それで、よーぜんさんのサイト「春雁抄」中の「書棚」のページに掲載してあります書名を参考にさせてもらい最寄りの図書館で調べることにいたしました。

 それで、図書館で木村徳衞著『直江兼續傳』(東京:木村徳衞、 1944年6月)で問題の漢詩を見つけることができました。なお、同書の230頁及び264頁には、天正19年(1591年)の3月初旬、直江兼続が細川幽齋と京都の相國寺で聯句会を楽しみ、細川幽齋が発句に「花の後歸るを雁の心哉」と詠んだことが紹介されており、さらに「この幽齋の發句は、豫め兼續の作詩として最も有名である上二句の闕けて居る所の、『春雁似吾吾似雁。洛陽城裏花背歸。』を知って發句したもの歟。或は此句の考想に依って兼續の詩作となった歟。其何れが前後なるやは不明であるが、互いに關聯する所あるものと思はれる」と興味深い考察をしていました。

 さて、『夢にも思わない』では、「僕」から「おまえ、カノジョとうまくいってるか?」と訊かれたときに、島崎が「おまえほど、オレはポーッとなってないからな」と応え、さらにその言葉に添えて「洛陽城裏 花に背いて帰る」と言っています。よーぜんさんのご指摘通り、島崎君はこの漢詩に託して、「花」すなわち「カノジョ」のことに心惑わされてなんかいられないよ、とでも言いたかったのかもしれませんね。
 
 それで、私のホームページに載せております拙文「『夢にも思わない』に見る様々なレトリック」の後ろによーぜんさんのサイトに載っています「春雁似吾吾似雁」の詩句のご紹介、ご解説や、また今回の掲示板でご教示していただいたことを付記させてもらいました。

 本当にいろいろ参考になりました。またこれをご縁にこれからもよろしくお願いいたします。

 
三楽堂 Date: 2003/09/24/Wed/00:46:08

細川幽斎の「花の後歸るを雁の心哉」は、相国寺へ贈られてきたもので、これを受け取った僧侶(おそらくは西笑承兌)が直江山城守のところへ渡したといった記事が当時の日記にあります。
幽斎の和歌に、兼続が影響されて詠んだものではないか、とわたしは思います。つまり、上二句はもともと存在せず、漢和連句の体裁をとって下二句のみとしたのではないか、という考えです。
後世に残るほどの漢詩であれば、断片ではなくきちんとした形で伝わっているほうが自然であると思うのですよ。平仄とか法則に則ったスタイルで、はじめて良さがわかるはずですから。

宮部みゆきはわたしもあまり読んでいない(『蒲生邸事件』のみ)のですが、かみさんがほとんど読んでいます。
宮部作品の時代小説は新人物往来社を初出としているものが多い(現在も「孤宿の人」を隔月連載中)ので、意外と情報源は「歴史読本」だったりして・・・
よーぜん Date: 2003/09/24/Wed/08:59:34

やまももさん>

こんにちは。
早々に図書館で調べられたとの由、フットワークの軽さを見習いたいところです。
私のお答えが参考になったかどうかわかりませんが、なんらかの手がかりとなったようで、ほっとしております。
私のほうとしましても、兼続の漢詩を見直す機会を与えていただいた感じで感謝しております。
また、貴サイトさまに拙文を載せていただいて、かえって恐縮です。
これを機に、宮部作品も読んでみたいと思いました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

三楽堂さん
レス、ありがとうございました。

>上二句はもともと存在せず、漢和連句の体裁をとって下二句のみとしたのではないか、という考えです。

たしかに兼続の漢詩の中では有名なものなのに、きちんと絶句の形式として残っていないというのは引っかかるところです。
このように考えれば、理解できますね。
なにより、「春雁」の詩は、あの2句だけで完結している感がありますので。

 
やまもも Date: 2003/09/24/Wed/21:09:39

よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。

 よーぜんさん、ご丁寧なお返事をいただき恐縮しております。また、ありがたいことに私のホームページの掲示板にもわざわざメッセージを寄せて下さいまして、本当にありがとうございます。すぐにそちらの方にもお返事を差し上げたいと思います。

 三楽堂さん、初めまして。宮部みゆきが直江兼続の漢詩を『夢にも思わない』の文中で使用したことに関しまして、「意外と情報源は『歴史読本』だったりして・・・」との興味深いご推測、同雑誌を発行している人物往来社と宮部みゆきの関わりを考えると、その可能性もあるかもしれませんね。或いは、『歴史読本』編集部の人とのちょっとした雑談からアイディアをもらったかもしれませんね。

 さて、いただきましたメッセージでご紹介の「当時の日記」と関連していると思うのですが、木村徳衞著『直江兼續傳』(東京:木村徳衞、 1944年6月)の264頁に、相國寺の日記「鹿苑日録」の天正19年(1591年)の3月7日の記載が引用されていますので、下に紹介いたします。

 七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也、白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来、裁書伸禮謝而己、自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉、云々

 「脇遣于越州直江公」を「脇を越州直江公に遺す」と読み下すのでしょうか。「脇」は発句に対する脇句のことと関連があるのでしょうか。うーん、この時代のことに疎い私にはよく分かりません。上記の資料の記述から直江兼続の問題の漢詩と細川幽齋の「花の後歸るを雁の心哉」との関連をどのように読み解くのか、皆様方のご検討にお任せいたします。

ところで、三楽堂さんの奥様は宮部みゆき作品をほとんど読んでおられるとのことですね。もし遊びに来てくださったら大歓迎いたしますとお伝え下さいませんか。

三楽堂  Date: 2003/09/25/Thu/07:47:46

やまももさん、ご挨拶いたみいります。

「当時の日記」とはご指摘のとおり「鹿苑日録」です。この時に兼続は幽斎の発句に接したのでしょう。漢詩と和歌が混在する「漢和連句」では兼続は漢詩しかつくっていませんから、これに応えたのが「洛陽城裏・・・」の句だったのではとわたしは考えています。

>宮部みゆき作品をほとんど読んでおられるとのことですね。

たぶん『夢にも思わない』も読んでいると思いますから、問題の場面も知っているかもしれません。ただ、兼続には結びつかないだろうけど・・・
ネット上のことゆえ、「連れてきました〜」と言うわけにもいかないですが、貴サイトのURLは伝えておきます。
ありがとうございました。

 
よーぜん   Date: 2003/09/25/Thu/09:25:10

やまももさん
ご丁重なご挨拶、恐れ入ります。

「脇遣于越州直江公焉」の部分ですが、「焉」の字が気になるのですが(おそらくこの後文章が続いている?)「脇遣于越州直江公」だけでしたら、やまももさんの書き下しの通りでよろしいかと思います。「脇」も発句に対する脇句(発句につける付句)という解釈でいいのではないでしょうか。

三楽堂さんおっしゃるように、細川幽斎の発句に対する付句としたら、おさまりがいいように思います。
最初はどうであれ、句そのものが完結してしまっているために、句が一人歩きを始めたようなところがあるのかもしれないですね。(欠けていると思われる前二句をつけてみたりとか)

やまももさんのサイトですが、本当に素敵なサイトですので、宮部作品を読んだことのある人もない人も、立ち寄ってみてください。

  
やまもも Date: 2003/09/25/Thu/20:45:57

三楽堂さん、よーぜんさん、こんばんは、やまももです。

 三楽堂さん、兼続は漢詩と和歌が混在する「漢和連句」でほとんど漢詩ばかりを作っていたようですね。なお、木村徳衞著『直江兼續傳』(東京:木村徳衞、 1944年6月)の263頁には、「聯句會にても、兼續のものには常に漢の句のみである」としながらもが、「文祿二年正月十日、景勝朝鮮に在って將士と連歌會を催ほした時」にはつぎのように主従唱和していることを紹介しています。

  賦何人聯句
 我國と立かへるとしの霞哉     景勝
 雪に鷹なくはるのとお山      兼續

 奥さんに私のホームページのURLをお伝え下さるとのこと、本当にありがとうございます。「連れてきました〜」と言うわけにもいかないと書いておられますが、ご訪問下さったことは実に簡単な方法で分かりますよ。掲示板に書き込んで下さったらすぐに分かりますよ。そのとき、きっと私の心臓は突然独立した生き物になり、どうやら新体操の選手になろうと決心したように驚くべき高さに飛んだり跳ねたり、動脈をパッと離して放り上げてまたキャッチ、ジャンプして開脚なんてことになり、胸の奥で大騒ぎすることでしょう。おっと、これは宮部みゆきの文章のパクリです。 (^_^;

よーぜんさん、「やまももさんのサイトですが、本当に素敵なサイトですので、宮部作品を読んだことのある人もない人も、立ち寄ってみてください」と宣伝して下さり、本当にありがとうございます。しかし、まさか「春雁抄」のサイトで宣伝活動までしていただけるとは思ってもいませんでした。

 ところで、「脇遣于越州直江公焉」の「焉」の字のことですが、この文字は文末につけて語調を整える助詞で、訓読するときには読まないんですね。本来の漢文には句読点がありませんから、それと同じ役割を果たしていると考えていいと思います。それで、「自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉、云々」の部分の読み下し方ですが、「幽齋より發句現われ來たる。句に曰く、花の後歸るを雁の心哉。脇を越州直江公に遣わす」ともできますが、自信は全くありません。

よーぜん Date: 2003/09/25/Thu/21:28:36
   

>「脇遣于越州直江公焉」の「焉」の字

なるほど、そういう使われ方もするんですね。
以前からずっと思っていたのですが、漢文(漢詩)の勉強をしなおしたいと思う今日この頃・・・

三楽堂 Date: 2003/09/26/Fri/09:04:16

おはようございます。今日は遅番なので、まだ家にいます。
ふと思ったのですが、

自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉

の文章については、「幽斎が『花の後歸るを雁の心哉』という発句を寄越した。さっそく脇を自分がつけて、これを直江公に贈った」ともとれるような気がしました。
つまり、春雁・・・は西笑承兌の作ではないか?
幽斎から送ってきたのは発句であり、兼続に遣わしたのは脇ですから。
西笑も漢詩ONLYであるところが気にかかる。

  
やまもも Date: 2003/09/26/Fri/20:11:59

よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。

 三楽堂さんの「幽斎が『花の後歸るを雁の心哉』という発句を寄越した。さっそく脇を自分がつけて、これを直江公に贈った」ともとれるような気がしました。つまり、春雁・・・は西笑承兌の作ではないか?」とのご意見について、私なりの見解を述べさせてもらいます。

 まず、「脇遣于越州直江公焉」(脇を越州直江公に遣わす)の意味を「脇を自分がつけて、これを直江公に贈った」とすることも文法的には可能かもしれませんが、そうすると、細川幽齋の発句「花の後歸るを雁の心哉」→西笑承兌の脇句→兼続の第三句の順番になりますね。そう考えますと、和句→漢句→和句となり、兼続は和句を詠むことを求められたことになります。

 なお、岩波書店の『広辞苑』では、「和漢聯句」について「聯句の一体。五・七・五の一七音または七・七の一四音の和句と五言の漢句とを連句のようにつらねるもの。狭義には、そのうち発句が和句で始まるもの」と解説しています。

「春雁似吾々似雁 洛陽城裏花背帰」は七言七言ですね。「和漢聯句」で七言の漢句を重ねることが許されるのか、そのことは今後の検討課題といたしまして、ほとんど漢句しか詠まないことで有名な兼続に和句での第三句を求めるものでしょうか。

 あるいは、相国寺の西笑承兌は自分の漢句を兼続に見せたかっただけだとしましても、直江兼続も西笑承兌(徳川家康の相談役なんですよね)も当時の有名人ですから、西笑承兌が詠んだ漢句が兼続のものだと間違われて後世に伝えられていくなんてことがあるとはとても思えないのですが……。

 それで、「脇遣于越州直江公焉」(脇を越州直江公に遣わす)は「脇句を詠む役目を兼続に頼んだ」と解釈した方が理解しやすいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 
三楽堂 Date: 2003/09/26/Fri/22:44:10

ひとさまの掲示板で長引きそうな討議は恐縮してしまうのですが、主題的にはこのサイトにぴったりかと(勝手に)思っていますので、よーぜんさん、おゆるしを。

それと、前に、「後世に残るほどの漢詩であれば、断片ではなくきちんとした形で伝わっているほうが自然であると思うのですよ」と書きましたが、どうも断片のみ愛唱されるケースも多々あったようです。

>「和漢聯句」で七言の漢句を重ねることが許されるのか、

そう。わたしの疑問もコレです。実例があるのか。ないのか。こういうパターンの連句の事例が存在するのかどうか。

>そう考えますと、和句→漢句→和句となり、兼続は和句を詠むことを求められたことになります。

わたしはそう決めつけなくてもいいのではないかと思っています。和漢にせよ漢和にせよ、すでに幽斎・承兌は通常の規格からはずれてしまっています。この場合、幽斎・承兌・兼続は別に連句メーリングリストのようなことをやっていたわけではないと思います。

連句の際、同じ季語は何句あけるとか、漢句が続く許容回数とか、こまかい部分はその場その場でローカルルールがあったようなことが「国史大事典」だかに書かれています。
たとえば、兼続、幽斎、承兌も参加している連句では、和・漢のパターンが必ずしも一定ではありません。和・漢ともに最大4連続でしているケースがあるので、「4まで」といいうルールで催行されていたのでは?
また、参加者の中でも詠んだ句数に大きなひらきがあるので、どうも順番に詠んでいったわけではなさそうな・・・

幽斎の五・七・五の発句に対して、西笑は体裁を整える意味で七・七の句でつけたのではないだろうか(かりに幽斎の発句が七であったならば、西笑は五で応じたかも)とも考えています。「幽斎の発句に対して、こんなふうにつけてみたよ」と兼続へ贈ったのかもしれない。あるいは西笑がつけたという脇はぜんぜん別のもので、それを幽斎の発句ともども受け取った兼続が「自分だったらこうするな」と自作したのが「春雁」だったかもしれません。個人的には「春雁」の詩は兼続の作であってほしいと思いますが。

よーぜん Date: 2003/09/26/Fri/23:34:15
   

>ひとさまの掲示板で長引きそうな討議は恐縮してしまうのですが

いや、恐縮しないで下さい(笑)。いろいろ考える機会を与えていただいて、こちらこそありがたいと思っております。

俄仕込みで連句や連歌に関するサイトをあちこち検索してみましたが、よくわからない、というのが実情です(-_-;)
そもそも連句のルールというのが良くわからない。漢和連句になると更にわからない(笑)

やまももさんが引用してくださった「鹿苑日録」の記載にある「自幽齋發句現來」以下の部分ですが、そもそもこの連句は連句会を催して(つまり人々が一堂に会して)行われたものなのでしょうか。
順番(例えば幽斎→西笑→兼続・・・というような)があって、その順に懐紙をまわして付け句していったものなのでしょうか。

連句の遊び方としてそのようなやり方があるのかどうかわかりませんが、ちょっと引っかかったのは、「現來」の文字。「現れ来る」ですから、どこかから物が出てきたと解するのがいいのではないでしょうか。幽斎のもとから句が遣わされたのではなくて、文箱を整理している折か何かに、ふと昔の連句を書き付けたものが出てきた、みると幽斎の「花の後歸るを雁の心哉」の句だった。そしてそれに並んで脇句も出てきた。その脇句を兼続に見せた。
つまり、承兌が、「文箱を整理していたら、こんなものがでてきましたよ」と言って兼続に一連の句を見せた、という解釈はできないでしょうか。
その脇句が「春雁・・・」であるか否かはわかりません。私も三楽堂さん同様、「春雁・・・」の句は兼続のものと信じたいので、別の句であったと思いたいです。

>幽斎の発句ともども受け取った兼続が「自分だったらこうするな」と自作したのが「春雁」だったかもしれません。

↑なんだかこれって嫌味な感じですが、兼続らしいと言えばいえないことはないかも知れません。(笑)
 

やまもも  Date: 2003/09/27/Sat/00:01:31

三楽堂さん、こんばんは、やまももです。

 昔の連句会のように、兼続の春雁の漢詩を巡って私たちの論議もつぎつぎと続いてきましたね。なんだか連句会を楽しんでいる人たちの気持ちを疑似体験しているような気分になります。

 さて、三楽堂さんのご説明によりますと、『広辞苑』で説明されているようなルール以外のいろんなローカルルールがあり、「兼続、幽斎、承兌も参加している連句では、和・漢のパターンが必ずしも一定ではありません。和・漢ともに最大4連続でしているケースがある」とのことですね。それで、もしよろしければそのような実例(特に発句の和句の後に脇句と第三句が漢句として続くケース)が文献に載っておりましたら、その実例と文献名を教えていただきたいと思います。お手数をお掛けいたしますが、どうかよろしくお願いいたします。 

 私は、兼続が生きていた頃の時代について極めて一般的な知識しかありませんし、ましてや漢和聯句、和漢聯句なんてものが存在していることなど、これまで全く知りませんでした。今回の論議、本当に勉強になります。

 
三楽堂 Date: 2003/09/27/Sat/00:19:58

>特に発句の和句の後に脇句と第三句が漢句として続くケース

今、手許にはやまももさんもご覧になった木村徳衛『直江兼続傳』しかないので、そこから・・・

里村紹巴邸での和漢聯句

葉をおもみ夏はうこかぬ柳哉  紹巴
露涼満晩籬          兼続
山西看雨過          西咲(西笑)
空のまかひに月ほのかなる   玄旨(細川幽斎)

このあと、漢・漢・和・和・和・漢・漢・和・漢・和・和・漢・漢・漢・和・漢・・・と続いていきます。

漢和連句でも一例。

上杉景勝の佐渡陣凱旋祝。

霜葉凱旋錦          景勝
いさめるこまのさとちかき秋  紹看
月ぞすむ雲も軒はの山見えて  曲肱
景佳催雅遊          清叔
報春鶯語緩          兼続
和暖燕吟脩          朝清
かすみぬる川邊の柳うちなひき 実頼

これは、逆に漢・和・和と続くケースですね。

漢和・和漢連句では、恋の歌は何句までとかこまかいルールもその場その場で設定して楽しんだようですよ。


 
やまもも Date: 2003/09/27/Sat/08:02:28

三楽堂さん、よーぜんさん、おはようございます、やまももです。

三楽堂さん、和漢聯句、漢和聯句の実例の詳しいご紹介、とても勉強になりました。本当にありがとうございました。発句が和漢聯句の場合は和句、漢和聯句の場合は漢句でも、その後に連ねる句は和句、漢句どちらでも構わないということがよく分かりました。そうしますと、「脇遣于越州直江公焉」の意味を「脇を自分がつけて、これを直江公に贈った」と解釈しても問題はないですね。

 ただ、承兌が幽斎の発句を受けて脇句を詠んだ場合は、「鹿苑日録」を記録していた人物(承兌自身なんでしょうか)は承兌が詠んだ脇句もしっかりと日録に記したと思うんですね。脇句そのものの記載がないということは、やはり兼続に脇句を詠むように依頼したと考えるのが自然だと私は思います(ガンコ一徹、我が道を行く)。

 よーぜんさん、前に「漢文(漢詩)の勉強をしなおしたいと思う今日この頃・・・」と書いておられましたね。それで私ではいささか頼りないですが、「鹿苑日録」記載の「自幽齋發句現來」の「自」について講義の真似をさせてもらいます。

 「自」は、場所や時の起点を示すときに用い、「自」+「名詞A」+「動詞B」の語順で使われ、例えば「有朋自遠方来」(朋有り遠方より来たる)などが有名ですね。

 そうしますと、「自幽齋發句現來」は「幽齋より發句し現れ來る」か「幽齋の發句より現れ來る」の両方の読み下しが可能だと思いますが、意味はそんなに変わらないと思います。あくまでも発句は幽齋からなされたということを記述しており、「文箱を整理している折か何かに、ふと昔の連句を書き付けたものが出てきた、みると幽斎の『花の後歸るを雁の心哉』の句だった」という解釈はできないと考えます、ということで今朝の講義は終了しますが、いかがだったでしょうか。

よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/09:14:14

三楽堂さんがご紹介してくださった天正17年の連句会の作品ですが、以下に全作品をUPしてみました。参考までに。(句及び漢詩につけられた書き下しは『直江兼続伝』米沢信用金庫叢書より引用しました。なお、作品に付けた通し番号ならびに作者名のあとのアルファベットは便宜的によーぜんがつけたものです。)

http://shungansho.fc2web.com/kanwarenku.htm
三楽堂 Date: 2003/09/27/Sat/10:47:45

#よーぜんさん、アップお疲れ様でした。
恋の句が3連続していますが、これもルールで決めてあったかもしれませんね。和漢連句はこうしたこまかいルールを決めておかないと、同じ主題でダラダラ続いたり、堂々めぐりのようになってしまいかねないのかもしれません。

#やまももさん

>脇句そのものの記載がないということは・・・

うーむ、どっちなんでしょうねえ。
記述者・承兌にとっては、わかりきっている自分の句をわざわざ日記に書くだろうか?という疑問も拭いきれません。執務日記は承兌以外の者の眼にもふれるわけで、淡々と事実のみを記したものです。自分の句を再録せずに、ただ「直江城州公へ遣わす」としたほうが節度があるような気がするのですが・・・

>兼続に脇句を詠むように依頼したと考える

わたしもこの線は可能性があると思います。が、一方で、自分の発句をたらいまわしにされたと知ったら、幽斎も心穏やかではいられないのでは?という思いもあります。

>「鹿苑日録」を記録していた人物(承兌自身なんでしょうか)

問題の記事は承兌が筆記したものでしょうね。
「鹿苑日録」は百年以上もの間、記録されている鹿苑院院主の執務日記のようなものです。代々の院主が書き継いでいったもののほかに、弟子たちの動向なども記されています。
たとえば、慶長五年四月に承兌が大坂へ行ったまま戻らないのを、弟子たちが心配している部分があります。この時は弟子のひとりがかわって記述したものでしょう。ちなみに、この時、大坂へ呼び出された承兌が、徳川家康から直江兼続への書状を書かされていたと推測しています。


よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/12:06:45

やまももさん

「自」の解説、恐れ入ります。そうなんですよね、私もこの字は「〜より」と読むべきで、そうすると幽斎の句が送られてきた、という解釈が自然ですよね。ひょっとして、「自」を「おのずから」と読めないか、とも思ったのですが、(つまり、「おのづから幽斎発句現れ来る」と読んで、下で私がしたように解釈できないかと・・・)ただ、その場合だと、「幽斎」と「発句」の間に「之」とか「が」という助詞がないのが気になります。
やはりここは「幽斎より発句現れ来る」と読んでおくことにします。(ですが「現れ来る」といういい方がやはり気になる)

>和漢連句のルール
和漢連句に特別なルールがあったのかどうかはわからないのですが、例えば秋や春の句は5句まで許し、3句は必ず続けなくてはいけない、とか、恋の句は5句まで許し、2句は続けなくてはいけない、というようなルール(連句の世界では「式目」というんだそうです)があるそうです。(←俄仕込み)

よーぜん  Date: 2003/09/27/Sat/12:07:50

「春雁」の句と幽斎の発句との関連についてここでちょっと整理してみたいと思います。

1.幽斎の発句の脇句として「春雁」の句がつけられた
  (1)作者は兼続
     この場合、承兌は送られてきた幽斎の発句の脇句
     を兼続に依頼した。
  (2)作者は承兌
     なぜ、「春雁」の句が兼続作と現在に伝わっている
     のか、という疑問が生じる

2.幽斎の発句に対する脇句は承兌が付けたが、発句と脇句を見せられた兼続が、自分なら、として「春雁」の句を詠んだ。
(ちょっと兼続、嫌味かも・・・)

3.すでに兼続作「春雁」の句は世に知られていて、その句の趣を幽斎が発句にした。
  これは渡邊三省氏が『正伝直江兼続』の中で述べられています。

だいたいこんなところでしょうか。


やまもも Date: 2003/09/27/Sat/12:22:02

よーぜんさん、三楽堂さん、今日は、やまももです。

 よーぜんさん、今朝私が書きました「自幽齋發句現來」の説明、少し手直ししたいと思います。それは、木村徳衞著『直江兼續傳』の264頁に引用されている「鹿苑日録」のつぎの文章の意味を漢和辞典を頼りに読み直し、少し認識が深まったからです。

 七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也、白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来、裁書伸禮謝而己、自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉、云々

 上記の冒頭の「七日、早暁勤行如常、鹿苑堂僧来也」(七日、早暁の勤行は常の如し。相國寺の鹿苑堂に僧来たる也)は、「僧侶が鹿苑堂に書簡を届けに来た」と解釈しました。次の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」の意味はよく分かりませんのでパスさせてもらって、続く「裁書伸禮謝而己」(書を裁して禮謝を伸べるのみ)を「書簡をしたためて使いの僧侶に渡し、(品物などは渡さず)ただお礼だけ言った」と理解しました。なお、「裁」には「文章やことばを適切にあんばいする」という意味があり、「伸」には「申しのべる」という意味があります。

 それで、「自幽齋發句現來」は「幽齋よりの發句、現われ來たる」と読み下し、意味としては、僧侶にお礼を言って帰した後で書簡を開けたら、幽齋からの発句(懐紙に書き付けてあったと思います)が出てきた、ということではないでしょうか。

 それで、幽齋の書簡そのものは、兼続に脇句を詠んでもらうようにとの依頼文だったので、使者に幽齋の発句の懐紙も持たせて兼続のところに送ったのではないでしょうか。

 それから、「春雁」の句と幽斎の発句との関連についてのご整理、ありがとうございました。私も頭の整理になりました。それで、私は第3説あたりではないかと思っていますが、また後でいろいろ深めてみたいと思っています。


三楽堂    Date: 2003/09/27/Sat/14:43:06

#「鹿苑日録」の解釈ですが。

鹿苑堂の僧が取り次いだのは「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」までであって、幽斎からの発句がやってきたのは別便でしょう。
「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」は、白雲興廣首座から双瓶2、豆腐が贈られてきたのです。双瓶とは徳利の一種です。要はお酒です。おつまみの豆腐がいっしょに贈られてきたわけです。二封とあるのは、当時のお酒は空気にふれるとじきに酢になってしまうため、口に封がしてあるので、これを言ったものと思います。
あるいはこの書き方からして、白雲興廣がお酒と豆腐をさげてやって来たのを、鹿苑堂の僧が取り次いだととらえることも可能かと思います。
お酒と豆腐だけ届けられたのでしたら、「自白雲興廣首座所」といった書き方が妥当でしょう。承兌にとっては、白雲興廣とお酒と豆腐が3点セットでやって来たと書くほど気安い関係なのでしょう。
飲んでいる最中か、飲んだあとかはわかりませんが、後刻、細川幽斎から発句が届いたとみるほうが妥当かと思います。(すでに発句が届いていて、この日に兼続へ脇句を贈ったという可能性もありますが)


#なぜ、「春雁」の句が兼続作と現在に伝わっているのか。

実はこの詩は兼続の署名があるわけではないのです。「春雁」が兼続の作であるとしている『常山紀談』は1700年代後半の成立。
木村徳衛などが典拠としている「米沢地名選」は1804年成立で、作者も「春雁」の句が兼続の真筆であるとは書いていません。いくつか紹介されているうち別の漢詩2編はどこそこの家に真筆ありと記しています。

承兌が贈った脇が、そのまま兼続のもとに保管され、没後、整理しているうちに彼の作品などと取り紛れてしまった可能性も考えられます。

「春雁」を兼続の作であるとする補強材料としては、なるべく近世初頭の文献が出てくるのが望ましいのですが・・・


よーぜんさん、整理ありがとうございます。自分で2をあげといて何ですが、わたしは、1(2)か3であるように思います。

よーぜん Date: 2003/09/27/Sat/18:53:55

やまももさん、山楽堂さん、レスありがとうございます。

>自分で2をあげといて何ですが

2はあまりにもイヤミですもの。山崎潤ならともかく。って、これは一部の方にしか通じないネタでした(^_^;

あと、1ですが、(2)としたらこれは新説ではないですか。説としては面白いと思うのですが、作が承兌ということで、ちょっと受け入れがたいかな...先入観でものをいってはいけないと思うのですが・・・。
1(1)の脇を兼続に依頼したというものですが、果たしてやまももさんのおっしゃるように幽齋の書簡が兼続に脇句を詠んでもらうようにとの依頼文で、兼続の元に幽齋の発句の懐紙も持たせて送ったということがありうるのかどうか。幽斎と兼続の当時の交友関係がどの程度のものだったのか、という問題も絡んでくると思うのですが、兼続が脇を詠むのだったら、兼続に直接送るのが自然ではないかと思うからです。

消去法でいくと、私の希望ということもあるんですが、私としては3を支持したいですね。

やまもも Date: 2003/09/27/Sat/19:34:28

よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。

 三楽堂さん、「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」のご説明ありがとうございました。これはご解説通り「白雲興廣首座から双瓶2、豆腐が贈られてきた」と理解すべきでしょうね。ただ、「鹿苑堂僧来也」の記述は後の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」とは別個の事柄と理解してもいいのではないでしょうか。

 三楽堂さんは「鹿苑堂の僧が取り次いだ」と書いておられますね。しかし、この記述は「鹿苑日録」のものですから、わざわざ「「鹿苑堂の僧が取り次いだ」なんてことを記すとは思えないんですね。ここは「鹿苑堂に(他の塔頭或いは他の寺院の)僧がやって来た」という意味だと理解しました。そして待っていたその僧から渡された書簡を開いたら、幽齋の発句が書かれた懐書が出てきたと解釈することも可能だと思います。

 なお、平凡社の『世界大百科事典』の「相国寺」の解説文中に「鹿苑院(ろくおんいん),資寿院,大智院,常徳院,雲頂院の5塔頭があったが,のちしだいに数を増した。(中略)義満は春屋を天下僧録に任じ,禅寺と禅僧を統轄させたが,やがて鹿苑院の院主が僧録をつかさどり,さらに院内の蔭涼軒(いんりようけん)の軒主がつかさどるようになった」とあります。

 それから、「鹿苑日録」についてのご解説もありがとうございました。なお、平凡社『世界大百科事典』で「鹿苑日録」も調べましたら、その解説文の中に「1487‐1651年(長享1‐慶安4)の景徐周麟(けいじよしゆうりん),梅叔法霖(ばいしゆくほうりん),西笑承兌(さいしようしようたい),有節瑞保(ゆうせつずいほ),粂叔顕圭(きんしゆくけんたく)の日記を年代順に編集し,文書案や詩集の断簡を付加した」との記述がありました。当時において、詩歌はとても社会的に重要な意味を持っていましたから、「詩集の断簡」も日録に付加されたのでしょうね。「鹿苑日録」は私的な日記ではありませんから、もし承兌が脇句を詠んだら、それもきっと日録自体にきちっと記録されたのではないでしょうか。


やまもも Date: 2003/09/27/Sat/19:43:34

よーぜんさん、三楽堂さん、引き続いてこんばんは、やまももです。

 最初は「鹿苑日録」の記述の解釈についてはお二人にお任せするつもりでおりましたが、論議すればするほどまた新たな疑問が生じ、BBS版「トリビアの泉」がこんこんと湧き出して来て、いつのまにやら私自身が深みにはまり込んでしまったようです。でも、幽齋の発句と兼続の春雁の漢詩との関連についてはそろそろ煮詰まってきたような気がいたします。

 よーぜんさんが「1.幽斎の発句の脇句として『春雁』の句がつけられた」「2.幽斎の発句に対する脇句は承兌が付けたが、発句と脇句を見せられた兼続が、自分なら、として『春雁』の句を詠んだ」「3.すでに兼続作『春雁』の句は世に知られていて、その句の趣を幽斎が発句にした」との3説に整理されましたね。

 まず、第1説ですが、お二人に紹介していただいた和漢聯句、漢和聯句の実例から見ても、一人が漢句を連続して詠む(漢句を重ねる)ということはないようですから、この兼続の「春雁」を和漢聯句の「脇句」とする説は可能性が余りないと考えられます。

 次に第2説ですが、これは承兌が幽齋の発句を受けて脇句を詠んだという出発点そのものに対して大いに疑義があります。

 それで、第3説は充分に可能だと思います。しかし、第4説として幽斎の発句を受けて兼続が「春雁」の文字の入った脇句を詠むとともに、さらにその脇句を七言二句の漢詩に作り直し、こうして「春雁似吾々似雁 洛陽城裏花背帰」が誕生したとも考えられます。
 結局、第3説、第4説は、木村徳衞がその著『直江兼續傳』の264頁で、「幽齋の發句は、豫め兼續の作詩として最も有名である上二句の闕けて居る所の、『春雁似吾吾似雁。洛陽城裏花背歸。』を知って發句したもの歟。或は此句の考想に依って兼續の詩作となった歟。其何れが前後なるやは不明であるが、互いに關聯する所あるものと思はれる」との考察と同じものになりましたね。しかし、先学の研究の考察と同一になりましたが、よーぜんさん、三楽堂さんとの独自的な検討過程で随分と私自身は多くのことを学んだような気がいたします。

やまもも Date: 2003/09/28/Sun/07:52:11

よーぜんさん、三楽堂さん、おはようございます、やまももです。

 今朝、家の近くを犬を連れての散歩途中で「鹿苑日録」の「白雲興廣首座双瓶二封豆腐到来」についての新たな解釈が思い浮かびましたのでお伝えいたします。

 文章そのものは三楽堂さんのご解釈に従うつもりなんですが、白雲興廣首座が双瓶と豆腐を届けたのは鹿苑堂を訪れた僧侶をもてなすためだったのではないでしょうか。これでなんとか「鹿苑日録」の問題の文章全体の意味が解けたような気がしましたので、下に私なりの現代語訳を載せておきます。

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七日。早暁の勤行は通常通りにおこなわれた。鹿苑堂に僧侶が訪れた。白雲興廣首座から二対の双瓶と豆腐が届けられたので、それでその僧侶をもてなした。手紙を書いて僧侶に渡したが品物は渡さず、お礼のみを述べた。僧侶が帰った後、その僧侶が届けた書簡を開いたら、幽齋が発句して書き付けた懐書が出てきた。その発句は「花の後帰るを雁の心哉」というものであった。幽齋の書簡での依頼に従って脇句を越州直江公に付けてもらうことにした。以下略。
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 細かいところではいろいろ解釈に問題はあると思いますが、朝の散歩のようにとてもすっきりしました(自画自賛)。

よーぜん  Date: 2003/09/28/Sun/10:07:42

やまももさん
「鹿苑日録」の現代語訳、お疲れ様でした。とてもすっきりとまとめていらっしゃるのにはさすが、とうなってしまいました。

細かいところ云々と書いていらっしゃいましたが、「鹿苑日録」が
執務日記であることを考えると、わかりきったことは省略したり、独自の表現などを使って書かれている事柄も多々あるように思います。
例えばやまももさんが指摘されている「鹿苑堂僧来也」の部分の解釈ですが、私もやまももさんのように「鹿苑堂に僧が来た」と解釈したのですが、これを取り次いだという風に解するとして、「鹿苑日録」の他の部分で、同じような用例があるのかどうか、細かいことを言えば検討してみる必要もあると思います。

幽斎の句と「春雁」の句の関連についてですが、「鹿苑日録」がいわば公的な日記である性格上、幽斎の句が来たとあるのは、個人的な「連句会(?)」ではなく、どちらかというと公的な性格の(それほど大げさなものではないにしても)連句会だったのではないでしょうか。(「連句会」と「」つきで書いたのは、「鹿苑日録」の記載だけでは、書付でもって句をつけていったと読めるからです。ですが、実際に一堂に会した連句会であったのでは、という気もするのです・・・)
また、発句は主賓格の人が作り、脇句は発句に沿うようにして亭主が読むというのが一般的な連句の作法のようです。当時直江は32歳、3度目か4度の上洛のときのことです。脇句が亭主、ということから言えば、直江がこの一連の連句会を主催したというよりは、相國寺の承兌が主催した、と考えるのが自然ではないかと思います。ですから脇は直江ではなく、承兌自信がつけたものと思います。
相國寺の承兌が主催した連句会と考えると、「鹿苑日録」に記載した理由というのも納得できるように思います。


やまもも    Date: 2003/09/28/Sun/14:42:32

よーぜんさん、こんにちは、やまももです。

 「発句は主賓格の人が作り、脇句は発句に沿うようにして亭主が読むというのが一般的な連句の作法のようです」とのご説明、ありがとうございました。また、「相國寺の承兌が主催した連句会と考える」場合には、承兌が亭主となって脇句を詠むのではないかとのご指摘もごもっともだと思います。

 ただ、「鹿苑日録」の天正十九(1591年)三月七日の「「自幽齋發句現來、句曰、花の後歸るを雁の心哉、脇遣于越州直江公焉」の記述からは、相國寺で幽齋、承兌、兼続等が一堂に会して聯句会を催していたとは思われません。やはり、懐紙に書いた詩句を書状に添えて使いに持たせて伝達しているように思います。そのような「聯句会」の場合、幽齋のご指名で兼続が脇句を詠んでも不思議ではないと思います。

 ところで、幽齋こと細川藤孝(1534年〜1610年)について、平凡社の『世界大百科事典』には、「和歌,連歌,鞠,太鼓,料理,茶道,儒学,書道,故実に通じ,当代有数の教養人であった」、「幽斎は中世末期から近世初期の歌壇の中心的存在で,二条派の正統を伝え発展させた」、「弟子は智仁(としひと)親王,烏丸光広(からすまるみつひろ),中院通勝(なかのいんみちかつ)らの堂上(とうしよう)歌人はじめ,地下歌人,武人など幅広い」としています。

 問題の「鹿苑日録」の記述は1591年のものですから、幽齋はその時数えで五十八歳ですが、文人としてすでに高い名声を得ていたと思われます。ところで、承兌(1548年〜1607年)も相国寺住持であり、秀吉、家康にも重用された人物です。しかし、文の道では圧倒的に幽齋が上位にあったと思われます。ですから、その幽齋からの使いとして僧侶が相國寺の鹿苑堂を訪れたのですから、承兌は丁寧にもてなし、書状を書いて渡したのだと思います。きっと幽齋は書状で自分の発句の脇句を兼続に付けてもらうように要請していたと思います。

 なお、当時の相國寺はあらゆる情報が集まり発信されるセンターの役割を果たしており、また各界の人々を結びつける社交の場でもあったと思います。だから、幽齋は相國寺を経由して兼続に自分の発句へ脇句をつけようとしたのではないでしょうか。当時はインターネットとか携帯電話でメール交換することもできませんでしたしね。

よーぜん  Date: 2003/09/28/Sun/17:24:46

この「連句会」において、兼続が脇句を読んだとするやまももさんの説、たとえ、相国寺主催の「連句会」であるにしても、幽斎の「ご指名」があれば、兼続が脇を詠んでもなんら不思議はないかもしれません。また、「脇は亭主が詠む」という形式も、あるいはその時の状況によって必ずしも守らなければならないものでなかったのだとしたら、やまももさんのおっしゃるような場合もあるかと思います。
ただ、このときの「連句会」に関する史料はこの「鹿苑日誌」の記述のみで、この連句会に関わった人物としては幽斎と承兌、それに兼続の3名だけで、発句は幽斎のつくった「花の後歸るを雁の心哉」というものである以上のことはわかりません。
ですから、この「連句会」がどのような形で行われたものか(やまももさんのおっしゃるような書状の交換によるものであったのかどうか)ということも含めて、この「連句会」に関する別の史料でもあれば、また違う角度からアプローチできるのでしょうが、これ以上の議論は堂々巡りになってしまいそうなのですが、いかがなものでしょう。
お互いに譲れない部分は譲れないということで(笑)。

やまもも Date: 2003/09/28/Sun/20:59:48

よーぜんさん、よーぜんさん、三楽堂さん、こんばんは、やまももです。

 「鹿苑日誌」の解釈については、よーぜんさん、三楽堂さんからいろいろ貴重な知識や示唆を受け、お陰様で私自身は煮詰めるだけ煮詰めることができました。論議を始めるとつい夢中になってしまう性格ということもあり、また譲れない部分はやはり譲れませんが、しかしこれ以上煮詰めると煮物がお鍋に焦げ付いてしまうのじゃないかと私も心配になってきました。

 本当にこれまで大変お世話になりました。またこれからも、全く別のことでお訊きすることもあるかもしれません。その時はどうかよろしくお願いいたします。「春雁抄」が今後一層素晴らしいサイトとして発展することを心からお祈り申し上げます。


三楽堂    Date: 2003/09/28/Sun/21:59:27

主題がずれてきてしまっているようなので、そろそろ収束させましょうか。
「春雁」の詩が兼続のものに間違いないか、それとも承兌が作った可能性はあるのか、についてはよーぜんさんがおっしゃるように別の史料からのアプローチが必要になってくるでしょう。

やまももさんの「鹿苑日録」に関する記述で一箇所だけ首肯できなかった部分がありますので、そこだけ以下に記します。

>この記述は「鹿苑日録」のものですから、わざわざ「「鹿苑堂の僧が取り次いだ」なんてことを記すとは思えないんですね。

『鹿苑日録』の性格について、少し補足しますと、これは歴代住持の執務日記であることは変わらないのですが、関係者(住持の弟子とか)の日記やさまざまな記録を、後代になって年代順に編集しなおしているのです。ですから、公務日誌でありながら、私的なことも紛れ込んでいるわけで、後世のわれわれからすれば、この雑多な部分が非常にありがたくもあるのです。
鹿苑堂はご存知のとおり相国寺の塔頭のひとつですが、承兌は相国寺住持となった後、自ら創建した別の塔頭に住んだり、南禅寺へ移ったりしています。天正18年にはすでに鹿苑堂には常住してはいなかったようで、このため「鹿苑堂の僧が」云々という状況もあり得るのです。当時、承兌がいるところとは鹿苑堂ではなく、別の塔頭(あるいは相国寺?)だったのですから。ちなみに承兌は晩年にふたたび鹿苑堂に戻ったりしています。
ですから、承兌のもと(相国寺の別の塔頭?)に、鹿苑堂から使僧がやってきたということでしょう。

よーぜん Date: 2003/09/29/Mon/20:30:40

今回、やまももさんが質問提起してくださったことで、いろいろなご意見を聞くことができ、また、自分でも改めて「春雁」の句を考え直してみる機会に恵まれ、大変有意義だったと思います。

特に連句については、兼続がしていることだから少しは知っておきたい、と思いながらもなんとなくそのままになってしまっていたのですが、今回の議論を通して、連句についてもわずかながらではありますが、知識を持つことができたと思います。

「春雁」の句についてですが、細川幽斎の句との関わりも考慮に入れなくてはいけないのかもしれませんが、特に「花に背いて帰る」という最後の句に並々ならぬ決意が感じられ、やはりこれは、兼続が強い決意の元、帰国の途についた折に詠んだものという気がとてもするのです。
何か新しい史料が出てきて「これは実は承兌の句だった」とかの発見がない限りは、つよい決意を抱いて詠んだ兼続の句という理解をしておきたいと思います。

一連の議論については、BBSで流れてしまうのももったいない気がしますので、何らかの形で残しておきたいと思います。

本当にありがとうございました。
そして、今後とも、よろしくお願いいたします。


三楽堂 Date: 2003/09/29/Mon/20:54:03

>一連の議論については、BBSで流れてしまうのももったいない気がしますので、何らかの形で残しておきたいと思います。

わたしもせっかくだから、ログを保存しておこうと思ったのですが、よーぜんさんのほうで何かお考えのようでしたら、よろしくお願いいたします。
今回のやりとりを突破口に、今後、自分なりに考えてみたいと思っています。
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