本多政重
Honda Masashige
(1580〜1647)

 

 

勝吉、従五位下安房守。
徳川家康の重臣本多正信の次男。
はじめ家康に仕えたが、故あって江戸を離れ、関ヶ原の戦いでは、西軍の宇喜多秀家に仕えていた。

関ヶ原の戦いの後、前田利長、加藤清正らに仕え、1604年、兼続の長女と結婚、兼続の養子となる。

翌年長女が病死すると、(翌々年死亡説もあり)その4年後、兼続は実弟大国実頼の娘を養女に迎え、政重に嫁す。
一説に、兼続が政重を養子に迎えたのは、景勝の継嗣の誕生を期待してのことだったともいう。

1611年、政重は直江家を去り、姓も元の「本多」に改め、加賀前田家に仕える。
翌年、政重の妻も、加賀に赴いた。

前田家では3万石(後に5万石)の禄を食み、筆頭家老として藩政に貢献した。(ちなみに加賀八家−「かがはっか」と読む。加賀藩の家老衆。−の祿高は、奥村氏、村井氏、前田氏ら譜代の家臣たちは1万石台、横山氏、長氏で3万石台であった。)

ことに、前田利長のとき、越中新川郡の返上を幕府から命じられた際、政重が幕府との折衝にあたり、その命を撤回させたという。
この時の功を、藩主は5万石加増によって報いようとしたが、政重はこれを固辞。代わりに「村雨」と称する南蛮渡来の壺を賜った。この壺は、代々、本多家の家宝として伝えられたという。

 


 

現在、金沢市の兼六園に隣接する本多の森公園は、本多氏の邸宅があったところで、一角に「藩老本多蔵品館」が立つ。
ここには本多家に代々伝わる蔵品の数々が展示されており、「村雨の壺」も展示されている。


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