直江兼続とは?〜人物と時代〜

 

上杉景勝の股肱の臣としてその下で辣腕をふるい、徳川家康にまでも反旗を翻した戦国の猛将直江兼続。彼は優れた武将であると同時に、詩歌をよくし、書籍を愛した文人でもありました。
民政にも優れた才を発揮し、後に上杉鷹山は、藩政改革のおり、兼続の政策をお手本にしたといいます。
知勇兼備の将、直江兼続の経歴をかいつまんでご紹介します。

時代背景

直江兼続が生れた1560年という年は、桶狭間で織田信長が今川義元を破り、天下統一への第一歩踏み出した年であった。
同じ年、後に豊臣秀吉のもとで辣腕を振るった石田三成が生れている。

兼続の故郷、越後では、上杉謙信が越中方面および関東方面の経営に、日に夜を継いで駆け回っている時期であった。

 

出生と直江家相続

兼続は、1560年樋口兼豊の嫡男として誕生した。幼名を与六といった。
父兼豊は、薪炭用人として、坂戸城の台所まわりを預かっていた。
父に伴われ、与六少年も、城に出入りしていたに違いない。
与六の聡明さにいち早く目を留めたのは、上杉謙信の姉で、坂戸城主長尾政景に嫁ぎ、後に兼続の主となる上杉景勝の母・仙桃院であった。
そうして兼続は、仙桃院の推挙によって、景勝の近習に取り立てられた。

1578年、上杉謙信が死去すると、景勝と景虎(北条氏康7男で、上杉に人質として来ていたが、人質を好まない謙信は「景虎」と、かつての自分の名を与え、養子としていた。)という、謙信の二人の養子の間で家督を巡る争いが起こった。(御館の乱
この争いで勝利した景勝が、上杉家を継ぐこととなった。

景勝が家督を継いで間もない1581年、重臣直江信綱が、刃傷沙汰に巻き込まれて死亡する。越後の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の未亡人おせんに兼続を嫁し、直江家を継がせた。兼続22才、おせん25才の時のことであった。

ここに「直江兼続」が誕生する。

 

秀吉の時代

1586年、兼続は、主君景勝と共に初めて上洛する。秀吉と会見の後、同年中に帰国する。その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。

国元の越後では、長い間上杉家に抵抗していた新発田重家を破り(1587年新発田城攻略、重家自刃。)、1589年には佐渡も平定し、越後国内も、安定期を迎えた。これらの攻略戦の陣頭には、常に兼続の姿があった。

1590年の小田原征伐では、前田利家らの軍勢と共に上野国松井田城、武蔵国鉢形城をおとし、小田原城攻略に貢献する。

1592年、文禄の役では、景勝と共に渡韓。この戦が、無益なものと知っていた兼続は、自軍に対し、財貨の略奪などを厳しく戒めたという。
また、彼は、おびただしい数の漢籍が戦火に焼かれるのを惜しみ、その収集に奔走したという。このとき兼続が持ち帰った漢籍は、現在も残っている。

秀吉は、兼続をとても高く評価していたようで、「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人にすぎない」というようなことを言っている。自己の姓である「豊臣」姓を与えたり、景勝の会津120万石移封の際、兼続に米沢30万石を与えている。もっとも、秀吉は何人かの大名に豊臣姓を与えており、懐柔策の一つとして、秀吉の、姓のばらまきは有名である。

1598年、秀吉はこの世を去るが、遺命により、陪臣ではただひとり、太刀を一振拝領している。

 

関ヶ原

秀吉の死後、徳川家康は景勝の上洛を促すが、景勝は領国経営を理由にこれを拒否。兼続の知己である僧承兌の書状に対する兼続の返書(「直江状」)に激怒した家康は、会津討伐を決意。家康は上杉を討つべく会津へ向かう。

小山に到着した家康は、石田三成挙兵の報を受け、息子の結城秀康を宇都宮に残し、上方へ向かう。
敵に背を見せた家康に対し、兼続はあとを追うことを景勝に進言するが、景勝はその言を容れず、上杉軍は最上攻略に向かう。これまで兼続の進言は全て受け入れ、兼続の行なうに任せていた景勝が、このとき初めて兼続に対して異を唱えたのである。

急遽矛先を変えた上杉家であったが、まもなく関ヶ原での西軍の敗北の報を受け、撤退をする。このとき、2万余騎の自軍の殿軍を、兼続がみごとに務めたという。

 

関ヶ原後〜米沢へ

その後、家康に和を乞い、上杉家は米沢30万石に減封される。
家康に歯向かったにも関わらず、減封だけで罪が免れた影には、兼続の政治工作の努力があったという。

4分の1に減じられたにも関わらず、ほとんどの家臣は上杉家を去らずに米沢へ移った。移った当初はなんとか風雪をしのげるような仮住まいであったらしいが、兼続の総監のもと、着々と町づくりが進められていったという。

町づくりを進める一方で、兼続は近江国友から優れた鉄砲鍛冶を雇い入れ、軍備の強化も図った。

1614、1615年の大坂の陣に参戦。特に冬の陣では長男景明と共に殿軍を務め、戦功により、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた。

1619年12月19日、江戸鱗屋敷で死去。60才。
米沢徳昌寺に埋葬、後に米沢林泉寺に改葬された。



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